(やすらぎの信条)
十三、如来のいのちより生まれ、如来のいのちに帰っていくことを信じよう
わが子を亡くした母に説いたブッダの言葉がある。
「来た人のも去った人のも、いずれの道もそなたは知らぬ。
どこから来た子をわたしの子だと泣いて悲しむのであるか。
もしそなたが、来た人のも去った人のもその道を知っていようと歎くではない。
いのちのあるものは、みなこのようなものなのだ。
頼まれもしないのに、どこからかやってきて
許されもしないのに、この世から去っていくのだ」
子供には子供の業(ごう)があり、その業によって行く所がある。親であっても何ともすることができない所からやってきて、去っていったのだ。たとい自分の腹を痛めたわが子でも、 ただ腹を貸しただけである。 自分の所有と思ってはならない。 子供は親の意志とは関わりなくどこかから生まれ、どこかへ去って行くのだとの内容である。
空海も同じような教えを説いている。
「生まれかわり生まれかわって迷いの世界をへめぐり、 いくたびも死をくりかえしてはあらゆる迷いの世界に沈んでいる。自分を生んだ父母も生(しよう)の起源を知らず、その生を受けた自分も、死の行方(ゆくえ)をさとらない。 過去をふりかえれば、暗くして、その初めを見ることができない。 未来をのぞみ見れば、まったく不明でその終わりを知らない」
何度も生まれ、何度も死ぬことをくり返しては迷いの世界にずっといる。自分を生んでくれた父母も共にどこから生まれたかを知らないし、自分も死んでどこへ行くのか分からない。自分の過去をさかのぼって見ようとしても、どこから生まれてきたのかも分からない。死後のことを見ようとしても、どこへ行くのか分からないとの内容である。
ブッダも空海もどこから生まれ、死後どこへ行くのかを語られていない。だが両者共、 死後何も残らないゼロになるとする断滅論はとられていない。
インドにタゴールという詩人がいた。彼は宗教家であり、思想家でもあった。 1913年にノーベル文学賞を受賞している。 彼に次のような詩がある。
はじめ
わたしは どこから きたの?
どこで わたしを ひろったの?
こどもが おかあさまに ききました
(中略)
あさのひかりと いっしょにうまれた
天からの はじめての いとし子よ
せかいの いのちの 川にうかんで
ながれて とうとう わたしの
こころの きしべに のりあげたのよ!
人がこの世に生まれるのは、人の力ではないことを強調している。「せかいの いのちの 川にうかんで」とは、宇宙法界のいのちのはたらきと同じ意味である。
人は、宇宙法界のいのち、すなわち如来のいのちから生まれてきたことを表している。 いのちは与えられたものとのことである。
次に、一休(いっきゅう)禅師(ぜんじ)の句を記しておく。
借用申す昨月(がつ)昨日(にち)
返却申す今月(がつ)今日(にち)
借り置きし五つのもの四つかえし
本来空(くう)にいまぞもとづく
これは一体の辞世の句とされる。「五つのもの」とは、地・水・火・風・空の五つの元素であり、これを五大(ごだい)という。仏教では五大を万物の構成要素としている。この中の地・水・火・風の四つを四大(しだい)という。人間の身体は四大で構成されており、四大の調和が崩れたときが死だとする。
一休は、人の身体は仏から借りたものであり、その借りた四大を仏に返す。五大のうちの四大を返すと空の元素が残る。そのことを死んで本来の空にもどると表現している。つまり、人は仏から借りているいのちをこの世で生きる。死んだ後はいのちを仏に返して空にもどるとの内容である。
一休は禅僧であるから「本来の空にもどる」と言っているが、「如来のいのちに帰る」 と同じ内容だと思っている。
生と死は別々のものではなく、生の中に死があり、死の中に生があり、生と死は一体のものであり、共に与えられているいのちである。生が与えられたいのちなら、死も与えられたいのちである。
いのちは、如来のいのちから縁によって生まれたものであり、縁によってこの世に存在する。また、死は、縁によってこの世から去り、如来のいのちに帰っていくことである。 そこを浄土といえば浄土である。如来のいのちより生まれそこに帰っていくとは、如来のいのちはふるさとということである。
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