奈良歴史漫歩 No.045    春日若宮おん祭の歴史

 春日若宮おん祭は単に「おん祭」と呼ばれ、「御祭」あるいは「大祭」の意味で称せられる。いわば、祭の中の祭として、その創始から現在にいたるまで大和一国を挙げた最大の祭である。今でも、お渡りのある12月17日は、奈良市内の公立学校の授業は午前中のみとなる。

    
●大和の「国つ神」若宮の誕生

 お旅所祭で奉納される神事芸能は重要無形民俗文化財に指定され、日本古来の芸能の伝承という面から注目を集めるようになったが、平安時代にさかのぼる祭祀とそれ以降の時代の変遷も刻印されて、まさに生きた歴史の教材である。おん祭を全部見るには7年かかるという俗諺もあるそうだ。複数の日数にわたり、多種多様な行事が繰り広げられる祭の全貌を捉えるのは容易ではない。ここでは、おん祭の起源と歴史をたどってみたい。

 おん祭の祭神は、言うまでもなく春日大社若宮に祀られた「若宮」である。古い記録には「五所王子(ごしょのみこ)」や「天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)」ともされるが、春日本社第三殿に祀る「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」の御子神である。

 長保5年(1003)、本社第四殿比売神(ひめがみ)の御殿の下に、「心太(ところてん)状」のものが出現し、そこから小さな蛇が現れたという。若宮様のご出現である。当初は、第四殿内に祀られていたが、託宣により第二殿と第三殿の間の「獅子の間」に移った。平安末期の長承四年(1135)、本社から南へ約100mの現在地に春日造りの御殿が造られ、御遷座された。

 おん祭が始まったのはその翌年、保延2年(1136)9月17日である。全国的な洪水飢饉の鎮静を祈って、氏の長者にして時の関白の藤原忠通が創始したとされる。これがいわば公式的見解であるが、事情はもっと複雑である。

 お渡りの行列の先頭を行く「日使(ひのつかい)」は、関白藤原忠通が祭に参列するため下向してきたところ、にわかに腹痛となり、お供の楽人にその日の使いをさせたことに由来するという。しかし、その事実はなく、当初から関白の代役があてられていた。

 おん祭を創始し主催したのは、藤原氏でも春日社でもなく、興福寺であった。当時すでに春日社は興福寺の支配下にあった。僧兵たちは、事あるごとに春日の神木動座を担いでは上京し強訴を繰り返していたのである。しかし、春日の神は藤原氏の氏神である。春日の神を祭祀する者は藤原氏であり、春日の神官であった。勅祭の春日祭からは興福寺も締め出されていた。

 春日四神は、天皇の祖神の天下りに功績のあった天つ神であり、いずれも他所から勧請されている。若宮は天児屋根命の御子神であるが、蛇の姿であらわれたように水の神である。春日の信仰をさかのぼっていくと、その源は農耕に関わる水の祭祀に行きつくと言われる。若宮は元にあった春日信仰の復活であり、大和一国の「国つ神」の誕生とも言える。

 土地の神を祀る者こそ、その土地を治める者である。興福寺は大和一国の祭を創始するにあたって、春日の五番目の神を独立させ、その祭祀権を握ることにより、名実ともに大和の支配者としての地位を獲得することを狙った。



大宿所に並んだお渡りの衣裳。大和士の甲冑や大名行列の奴装束が目をひく。







大宿所祭での御湯立て式。巫女が腰に巻く縄紐はサンバイコと言われて安産の霊験がある。
    ●興福寺が主宰した大和一国の祭

 おん祭の全体の主宰者は、興福寺の別会五師(べちえのごし=教学執事代表)であり、関白藤原忠通は祭の権威づけに名義的に利用されたにすぎない。祭の出し物はそれぞれに世話人を決め、施主として費用を負担したが、これには僧呂や衆徒があてられた。

 おん祭の出し物の花形として厚遇されたのは田楽であったが、世話人を務めたのは興福寺学呂であり、特に田楽頭とも頭屋とも称されて、これを務めることが僧正・法印への出世コースとなった。競馬十騎、一つ物(馬長)の世話人も役僧があたった。

 細男(せいのう)頭役には興福寺寺門領の南都七郷、猿楽頭役には衆徒(=寺在住の武士)、流鏑馬頭役には国人(こくじん=興福寺配下の在地武士)が務めている。

 お旅所祭は、若宮本殿から若宮様をお旅所に迎えて行われる。黒木の松でこの日のために毎年葺かれる仮屋の立つ場所は、「山階寺東松林二十七町」と「東大寺山界四至図」にも記された興福寺の所領である。松の下式が行われる影向(ようごう)の松も、この場所にある。御蓋山の若宮が興福寺の寺領に遷幸されるということに、おん祭の性格が端的に示されているだろう。

 現在のお渡りは奈良市街のメインストリートを周回するコースであるが、明治までは、興福寺南大門で公名(きょうみょう)の儀を経て出発、時計回りに興福寺の大垣を外周して、一の鳥居を潜ったのである。

 鎌倉時代には興福寺が大和の実質的な守護となり、大和は春日社=興福寺の神国とも言われた。おん祭はまさに神国大和を演出するにふさわしい宗教的かつ政治的なショーであった。

田楽頭屋での装束賜式で威儀物として飾られた「盃台」。奈良一刀彫の高砂人形と松竹梅を配する。祭の後に希望者に払い下げられる。
    ●大和国衆が祭の担い手に

 室町時代に入ると、衆徒、国人の勢力が増してくる。彼らは国衆として自立化していくが、おん祭の主催者としても主導的な地位を得るようになる。

 毎年のおん祭は7月1日の「流鏑馬定」によって始まる。流鏑馬定は、その年の流鏑馬頭を定める儀式である。明治以降、流鏑馬が廃止されてこの行事も途絶えていたが、昭和60年(1985)の稚児流鏑馬の復活に伴って甦った。

 流鏑馬頭が願主人と名前を変え、その指名が祭の開始となるように、重要な役割を占めるのは南北朝の戦乱以降とされる。大和の衆徒、国人たちは、地縁によって六党に分かれてまとまる。乾脇(添下・平群郡=筒井氏)、長谷川(式下・式上郡=十市氏)、長川(葛下・広瀬郡=箸尾氏)、平田(葛下・広瀬郡=八荘官)、葛上(大和南部=吐田、楢原氏)、散在(その他の諸郡=越智氏)の六党であるが、彼らは毎年、交代で願主人を務めるようになる。

 いわば、若宮の六つの宮座が結成されたと言える。彼らは普段は敵味方に分かれ戦いに明け暮れているのだが、若宮の氏子として祭になれば共同して奉仕する。まことに不思議で奇得なことである。

 彼らが後援し施主となる猿楽が田楽に替わって人気を集めるようになった。また、祭の日も九月十七日から十一月二十七日に変更されるが、これも農村領主である彼らが一族郎党参加しやすい便宜のためである。

 現在、十二月十五日には大宿所祭が執り行われる。大宿所は、願主人が在所から出てきて祭のために精進潔斎する参籠所である。かつては、狩られた何百羽もの雉、何百匹もの兎が懸けられ、今は鮭や鯛に替わっているが、この懸物にいかにも武士の気風がうかがえる。十七日の本祭に先立つ大宿所祭と十六日の願主人たちの宵宮詣は、おん祭の主導権が興福寺から大和国衆に移ったことをよく伝えている。

稚児流鏑馬。止まった馬上から射るが、稚児役の少年は半年間特訓する。
    ●奈良町奉行が祭を引き継ぐ

 大和を支配下に置いた豊臣氏は、大和国衆を一国から追放した。おん祭は、豊臣秀長が代わって主催したが、長谷川党の一部を呼び戻して願主人を勤仕させている。

 江戸幕府も、豊臣氏の方針を引き継ぐ。形こそ旧来のままに行われたが、一切を手配しまた負担したのは奈良町奉行であった。

 おん祭を主催する者こそが大和の支配者であるという掟が、時代の変遷を越えて貫かれたのである。

 明治維新はおん祭の歴史のなかでも最大の危機を迎えた時期であった。興福寺が廃寺となり、おん祭は春日社の祭になったが、神社と旧神領の人たちの情熱によって維持される状態が続く。やがて奈良市が主催者を引き受けたのは、おん祭の掟が機能したとも言える。

 戦後は、おん祭保存会が結成されて企業や市民の参加が図られることになったが、文化財保存や観光振興などを名目とする国や自治体の助成によって支えられていることは間違いないだろう。

 おん祭は870年の歴史をもち、その起源のオリジナルな形が保たれるとともに、時代によって付加されまた消滅するという変形を伴って今に引き継がれる。この意味で、東大寺二月堂修二会とは対照的であり、大和一国の祭の所以だ。最近は一時途絶えていた旧儀がさかんに復興されている。これもまた時代の反映だろうか。


お旅所祭で猿楽が奉納される。金春流の演者が素面で神楽式を舞う。右奥の春日造りの社が黒木の松で葺いたお旅所。周囲にはかがり火がたかれる。

春日若宮社所在マップ


●奈良歴史漫歩No020春日大社の原象を求めて
●奈良歴史漫歩No038春日山の水神信仰
参考 永島福太郎・他著『祈りの舞』東方出版 『春日若宮おん祭の神事芸能』奈良市教育委員会 他
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