(ミニ法話)  こころの泉

   1.発心

 日本の仏教は、形骸化し、名刹は観光の対象となっていると以前から指摘されています。また、僧侶の求道心(ぐどうしん)は弱くなっており、もはや衰退しつつあるとの悲観的な見方が多くなされています。法を求めている人々に、正しい法を伝えることが困難になっているといえます。
 昔、比叡山が全焼したのを見て、深く無常を観じて、発心(ほっしん)した僧がいました。
 発心は、発菩提心(ほつぼだいしん)の略です。菩提すなわち悟ろう、目覚めようとする心をおこすことなしには、悟りの体得は不可能です。発心は、求道の基本であり、仏道の出発点とも言うべきものです。発心に出家・在家の区別はありません。発心の志は、平等そのものといえます。
 その夜、比叡山の守護神である山王明神(さんのうみょうじん)が、その僧の枕元に現われました。
 「発心の僧を得たのであるから、全山が灰になっても惜しくはない」
と告げられたといいます。
 諸堂が甍(いらか)を並べることよりも、法の興隆の方が大切であるというわけです。
 仏道を歩み、悟りを体現し、悟りによって得た法を伝えることが仏教の基幹です。ブッダをはじめ先徳者たちは、苦労に苦労を重ねて法を体得され、人々に法を伝えようとされました。そこには、苦悩し迷っている人々を救うという慈悲の心がはたらいていました。
 ブッダや先徳者たちの心に帰らなければ、今の仏教は不要の存在になりかねません。仏教者の責任は、はなはだ大きいといわざるを得ません。その出発点は、発心なのです。
        (平成17年9月)