(ミニ法話)  こころの泉

   2.すなおな心

 ある新聞に、59歳の男性の反省の心がうかがえる投書がありました。
 電車内で、初めて若者から席を譲られたが、常日頃運動をしていて体力に自信があったので、若者の申し出に自尊心が傷つけられ、断ったとの内容でした。
 若者も立った手前、坐わることもできず、何度かすすめてくれたが、断わり続けたということです。二人の様子に周囲の視線が集り始めたので、気まずくなって途中下車してしまったとのことです。
 次の電車が来る間、考え続けたそうです。「自分がつまらない意地を張ったばかりに、若者の心に開きかけた人を思いやる優しい心のつぼみを摘みとってしまったのではないのか。悪いことをしてしまった。後悔している。」
 行為の後で後悔することは、多々あります。この男性の場合、簡単に言えば、意地を張ってしまったということでしょう。意地を張ることは、我(が)のはたらき以外の何ものでもありません。別の表現をすれば、すなおな心になれなかったということです。
 すなおな心になれなかったために、私たちはどれほど人を傷つけ、どれほど自分自身不利益をこうむってきたのか想像がつかないほどです。
 すなおな心になることによって、心が浄められてきます。心が浄められることによって、ものごとの真実が分かってくるので、正しい判断ができるようになってきます。正しい判断は、人生において大きな力となります。
 また、すなおな心は、仏道の歩みにおいても大切なものです。すなおな心にならないと、如来の慈悲を受けることはできません。如来は、常にはたらきかけてくれているのですが、こちらの心が閉ざされている限り、慈悲に気づくことはできないということです。
 すなおな心になれるように努めたいものです。
        (平成17年10月)