(ミニ法話)  こころの泉

   6.真実を求める

 中国は唐の時代に、大変勝れた禅僧がいました。彼が住んでいた村の近くの山に石窟があり、夏冬を問わず裸で修行している行者がそこに住んでいました。長く垂れた髪は顔を覆い、爪は刀のように長く伸びている行者を人々は尊敬して拝んでいました。
 あるとき、禅僧は行者のために、弟子に肌着を持って行かせました。弟子が行者に、肌着を着るようにすすめますと、「自分には母よりいただいた衣があるので、肌着はいらない」と言って受け取りませんでした。
 禅僧はそのことを聞き、「生まれる前にはどんな衣を着ていたのか」と弟子に行かせて質問させました。行者は、その問に答えることができませんでした。このことを恥じて村人たちに、「自分は、何日に死ぬであろう。死んだら、五色の舎利(しゃり)を残すので供養をしてくれ」と告げて死んでしまいました。舎利とは、骨のことです。村人たちは、行者が死んだのは禅僧の所為だとしました。
 行者を荼毘に付すと、五色の光明に輝く舎利が残っておりました。禅僧は、そのことを聞いて行者の墓に行き、舎利を手に取って、「死んで一粒の舎利になるよりは、生きていて問答の一句を究める方が勝っているのではないか」と問いかけると、たちまちに舎利は膿血となって流れたということです。
 禅僧が弟子を生かせて質問させたのは、「本当の自己とは何か」ということです。このことを究めることが正しい仏道といえます。ところが、超人的な特殊な能力を得ようとしていた行者は、禅僧の問に答えることができませんでした。
 この話は、特殊な能力よりも真実・真如を求めることの方が大切であるとの教えです。迷っていると、真実よりも特殊な能力に興味をもつものです。たとえ特殊な能力を得たとしても依然として迷いの中にあり、しかもその能力は泡や露のように一時的なものであり、やがて消えてしまいます。
 特殊な能力も無常のことわりを超えることはできないのです。
        (平成18年2月)