(ミニ法話)  こころの泉

   8.苦労を厭わず

 江戸時代の初めに、熊沢蕃山という儒学者がいました。一寒村の貧しい農家に生れた彼は、畑でとれた野菜を近くの村や町に売って生計を立てながら勉学に励んでおりました。
 当時、近江の国に中江藤樹という儒学者がいました。近江聖人といわれた陽明学派の祖です。身分制度の厳しい時代では、身分の低い者は、武士の講義する席に同席することができませんでした。
 蕃山は講義の始まる時間に間に合うように、四時間もかけてやって来て、垣根の外でうずくまって垣根越しに講義を聞いておりました。
 ある日、門弟が気づいて、そのことを中江藤樹に伝えますと、藤樹は「庭に入れて廊下で聞かせてあげなさい」と命じました。講義が終った後、中江藤樹は蕃山に「年老いた母と暮しているようだが、丁度、馬小屋が空いているので、そこに住んではどうか。そうすれば四時間もかけて山を越えて来なくてもいいではないか」と話しました。
 蕃山は、感謝の涙を流しながら「私は、山を二つ越えてここに来るからこそ辛抱の甲斐があると思っています。ここに住んで楽をして講義を聞くということは、もったいないことです。今まで通り、働いた後、山を二つ越えてここにやって来てお話をうかがうことが私にとって一番の励みになります」と答えました。蕃山は、後に立派な儒学者となりました。
 苦労をしてものごとを手に入れることよりも、楽をして手に入れようとする風潮が現在の日本にあります。苦労をして得たものは容易に無くなることはありませんが、楽をして得たものはすぐに無くなるものです。
 苦労するより楽をする方を人は好むものですが、仏法に関していえば、楽をして手に入れることのできる法などありません。法は、苦労を重ねて得るものです。苦労して得た法だからこそ人々のために生かすことができるのです。
 苦労は人を育てるものと思います。苦労を嫌がらずに歩んでいきたいものです。
 
        (平成18年4月)