(ミニ法話)  こころの泉

   11.ありのまま見る

 ブッダがサーヴァッティの郊外のジェータ林の精舎(しょうじゃ)に滞在されていたときのことです。サンガーラバという一人のバラモンが訪ねてきて、ブッダに次のように質問しました。
 「私は、あるときには大変澄みきった気持となり、これまでに学んだことはもちろんのこと、まだ学んだことのないことまで分ることがあります。また、あるときには逆に学んできたことがどうしても頭に浮んでこないことがあります。これは一体どうしたことなのでしょうか」
 「バラモンよ。ここに器に入れた水があるとしよう。もしその水が赤とか青とかに濁っているとしたら、人がそれに自分の顔を写しても、ありのままに見ることはできないであろう。それと同じように、人の心が貪りの欲で濁っているときには、ありのまま見ることはできない。
 また、もしその水が火にかけられて沸騰しているとしたらどうであろうか。そこに顔を写して見ることはできないであろう。それと同じように、人の心が怒りに支配されているときには、ありのまま見ることはできない。
 また、もし水面が水草に覆われているとしたらどうであろうか。顔を写して見ることはできないであろう。それと同じように、人の心が愚痴(ぐち)で覆われているときには、ありのまま見ることはできない」
 とブッダは説かれました。貪りの欲、怒り、愚痴に支配されているときには、ありのまま見ることはできないとの教えです。愚痴とは、智慧がはたらいていないことです。
 これら三つの煩悩は、三毒(さんどく)と言われています。毒と表現されているように、強い煩悩であり、しかも苦悩の根本的な原因となるものです。
 煩悩に支配されていると、なぜものごとをありのまま見ることができないのでしょうか。それは、煩悩が心を濁らせるからです。濁った心では、ありのまま見ることはできません。その結果、迷いや判断の誤りとなり、苦悩となってきます。心を静めて濁りのない心を保つ必要があります。
        (平成18年7月)