(ミニ法話)  こころの泉

   12.仏縁

 私の手許に「応無所住而生其心」という経文(きょうもん)の色紙があります。法政大学総長をされた哲学者の谷川徹三氏によるご染筆です。氏はすでに故人になっておられ、ご子息は詩人の谷川俊太郎氏です。
 この色紙は、私が十八歳のときに手に入れたものです。大学に入った夏休みに、広島の親戚の家に滞在していました。市内のデパートに行ったとき、丁度原爆被災者のためのチャリティーを開催しておりました。文化人や著名人の色紙が売られていて、湯川秀樹博士の色紙があり、欲しくて買うつもりでいましたが、横にあったこの色紙になぜか心を奪われたのです。意味は全く理解できませんでしたが、何か引き付けられるものを感じて購入しました。その後、この色紙のことは忘れておりました。
 それから十年後に私は高野山で出家し、『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』の解説書を読んでいたとき、この経文に触れて、広島のデパートで手に入れた色紙の経文が記憶として蘇ってきたのです。
 『金剛般若経』は、禅宗でよく読まれており、真言宗で読むことはほとんどありません。だが、空海は、この経の注釈書を残しておられます。当経は、初期の般若経典の一つで、空(くう)という言葉を使わずに空の思想を説いている大切なお経です。
 この経文は、「まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし」と読みます。「何ものにもとらわれないで、とらわれない心が生ずべきである」との意です。つまり、とらわれない心が生じることが、悟りを生み出す力であることを説いたものです。
 湯川博士のご染筆が欲しかったのに、なぜこちらの方を選んだのか分りません。今から思えば、仏縁があったのかとも思っています。不可思議な思いがいたしております。
        (平成18年8月)