(ミニ法話)  こころの泉

   16.真実を見る

 中国、南北朝時代に鳩摩羅什(くまらじゅう)という訳経僧がいました。羅什は、訳経史上、一時期を画した功績者であり、『法華経』『維摩経』『阿弥陀経』などの大乗経典を訳しております。弟子は、三千余人に上ったとされています。その高弟に道生(どうしょう)という僧がいました。彼は、一闡提(いつせんだい)でも成仏できるという説、つまり正法を誹謗するという善根を断った人でも成仏できると主張していました。
 その結果、仏教界から激しい非難を浴びて追放され、仕方なく山奥に逃れて暮していました。話す相手もいなかったので、谷川に転っている石に向かって、「一闡提の人でも成仏できる」と説いて聞かせますと、それらの石がことごとく頷いたということです。道生は、自説に揺るぎない信念をもっていたことがうかがえます。
 その後、インドから四十巻本の『涅槃経』が請来されました。その中に、「一切の衆生はことごとく仏性を有している」と説かれていました。仏性をもっていることと成仏は同じ意味です。道生を追放した僧たちは、驚いて道生を連れ戻してほめたたえたということです。
 道生は、的確に真実を把握していたわけです。他の僧たちは、経典の字句にとらわれて、真実を正確につかめなかったといえます。智慧のはたらきがなかったともいえます。
 ものごとには、真実があります。真実は、変わることがありません。こちらの方が真実に気づかないだけです。日常生活の場においても同じことがいえると思います。ものごとの表面にとらわれて、真実が見えなくなることがあります。特に私利私欲や貪りの欲などの欲心があれば、真実を見ることは困難となります。
        (平成18年12月)