(ミニ法話) こころの泉
18.正しい心構え
私は、今までに真言宗の修行の中でも、厳しいとされている行を数人の僧侶に指導してきました。行に入る前に、行の心構えを伝え、終了後に感想を聞いてきました。
ところが、些細なことを誇大に解釈したり、自己流に都合よく受け止めたり、妄想や幻覚を真実の体験と錯覚している場合がありました。このような体験が、正しい体験であるととらえていたわけです。心構えを伝えても、正しく伝わっていなかったことになります。このような私の思いを柔らげてくれるような内容が、『中部経典』にありました。ブッダとモッガラーナとの対話がそれです。修行は段階を踏んでいかなければならず、無上の安穏(あんのん)の境地にいたらしめるように順序をおうて指導しているとのブッダの言葉を聞いていて、モッガラーナは次のように質問しました。
「では世尊よ。弟子たちは、皆よく無上の安穏の境地にいたるのでしょうか」
「友よ。わたしの弟子の中には、いたり得ない者がいる」
「世尊よ。いかなる理由でいたる者がおり、いたり得ない者がいるのでしょうか」
「友よ。ここに人がいて、ラージャガハ(王舎城)への道を問うたとせよ。あなたは彼のために、詳しく道を教えたとする。ある者はラージャガハに至ることができるが、ある者は道を間違え、さまようこともあろう。それはなぜであるか」
「世尊よ。わたしは道を教えるだけで、それをどうすることができましょうか」
「友よ。その通りである。無上安穏の境地は、まさしく存する。そこにいたり得る道は、まさしく存する。しかし、弟子たちの中には、その境地にいたり得る者もあり、いたり得ない者もいる。それをわたしが、どうすることができよう」
ブッダは、悟りにいたる方法を示しても、到達するのはそれぞれの力量によるのだとされています。この教えに触れて、納得することができました。
このことは、決して僧侶の修行だけの問題ではなく、人は迷いやすく誤った道に入りやすいものといえます。正しい心構えをもつことが求められます。
(平成19年2月)
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