(ミニ法話)  こころの泉

   30.言葉の限界

 人にあることを言葉で伝えても、相手に正しく伝わらないことがあります。こちらの思いと相手の理解に差があるからでしょうが、言葉で伝えることの難しさを感じてしまいます。
 私は、今まで何人かの僧侶に行の指導をしたことがあります。行の心構えをあらかじめ伝えるわけですが、自己流に都合よく解釈したり、内容を誤って受け取っていることがよくありました。
 経典に次のようなブッダと弟子モッガラーナとの対話があります。
 「世尊よ。あなたの教えには、順序を追って学ぶ道があるのでしょうか」
 ブッダは、自分の教えには順序を追って学ぶべき道がある、として歩むべき仏道を順序にしたがって説明しました。
 「では世尊よ。弟子たちはよく無上の安穏の境地にいたるのでしょうか」
 「友よ。わたしの弟子の中にもいたり得ない者がいる」
 「では世尊よ。いかなる理由でいたる者がおり、いたり得ない者がいるのでしょうか」
 「友よ。ここに一人の人がいてあなたを訪ねて、ラージャガハへの道を問うたとせよ。あなたは詳しく道を教えたとする。ある者はラージャガハにいたることができるが、ある者は道を間違えることもあろう」
 「世尊よ。わたしは道を教えるだけで、それをどうすることができましょうか」
 「その通りである。無上の安穏の境地はまさしく存在する。そこにいたり得る道はまさしくある。だが、弟子たちの中には、その境地にいたり得る者もあり、いたり得ない者もいる。それをわたしがどうすることができよう」
 いかにブッダが正しい教えを説いても、道を得るか否かは弟子それぞれによるのだと言われています。言葉による伝達の限界でもあります。
        (平成20年2月)