(ミニ法話)  こころの泉

   31.心の椀

 明治時代の初めに七里恒順和上(しちりごうじゅんわじょう)という高徳の説法者がいました。和上は求法(ぐほう)の人であり、安心(あんじん)と報恩謝徳の心をもつことの大切さを説いていました。
 和上に次のような説法があります。
 「いくら湯や茶を注ごうとしても、お椀を伏せていたのでは注ぐことはできない。湯や茶を注いで欲しいと思ったならば、お椀を仰向けにしなければならない。たとえ、何度説法座下(ざか)に列なっても、心の椀を伏せていたのでは法水が入り満ちるということはない。心のお椀を伏せるとは、邪見驕慢(きょうまん)の心である。心の椀を仰向けるとは、自分は駄目な者と思って、法を仰ぎ信じることである。」
 伏せているお椀を仰向けることはたやすいことですが、心のお椀を仰向けることは簡単なことではありません。法水とは、仏法の教えのことです。邪見とは誤った見解のことですが、ここでははからいの心を言います。驕慢とは、おごり高ぶる心のことです。したがって、心の椀を伏せるとは、はからいの心、おごり高ぶる心のことを言っております。
 邪見・驕慢は煩悩です。そのため、いくら正しい立派な教えを聞いても、はからいの心やおごり高ぶる心があれば、その教えは心に入りません。自分は未熟者だと思って、謙虚な心で法を信じ、すなおな心で教えを聞かねばならないというのがこの説法の内容です。
 他人のはからいの心、おごり高ぶる心に気づくことは容易ですが、このような自分の煩悩に気づくことは難しいものです。他人の未熟さをいくらでも批判することはできますが、自分の未熟さを思い知ることは簡単ではありません。
 しかし、そうであればこそ謙虚に自己の心を見つめる必要があると言えます。
        (平成20年3月)