(ミニ法話)  こころの泉

   33.拝む心

 昔、石見の国に道哲という医者がいました。人々の病気を治療するのに必要な薬をいつも一山越えた備後の国まで買いに行っておりました。
 その頃のことですから薬はすべて漢方薬であり、薬や木の根を乾燥したものです。風呂敷を持って買いに行き、薬屋から売ってもらった薬を大事に背負って帰ってくるということをしておりました。道中、山裾であるとか、人目のつかない所へくると、薬の入った風呂敷を下ろして薬屋の方に向かって土下座をし、合掌して拝むということをしていました。
 その様子を見ていたある人が、「なぜそんなことをするのですか」と尋ねても、言葉を濁して答えませんでした。だが、何度も聞かれるうちに、「私は何も好き好んで拝んでいるのではありません。お金を出して薬を買うのは当たり前ですが、この薬を売ってくださる薬屋さんの心を思うと拝まずにいられないのです」と告げました。
 このような心構えの医者ですから、心から患者を診察し、調合してもらった薬を喜んで持って帰る患者の後姿をじっと拝むといったことをしておりました。なぜ患者を拝むのかとの質問に、「こうして病気を治してあげようと必死になっているが、患者さんが来てくれるから医者としての仕事ができるのです。患者さんを拝まざるを得ません」と答えていました。
 天台宗の開祖である天台大師智(ちぎ)は、「合掌とは両方の指を合わせ、それを胸の前に置いて散漫な心をじっと引きしめ、見つめた先のものに対して敬虔の念をもってそれを拝む。これが合掌である」と説いています。
 道哲は、正にこの拝む心を実践した人であったと思います。こちらが謙虚な心にならないと、相手に敬虔の念をもつことなどできません。合掌は、謙虚さを取り戻す作法ともいえます。
        (平成20年5月)