(ミニ法話)  こころの泉

   37.無私の活躍

 最澄は、『法華経』をもとに比叡山で立派な僧侶を育て、全国に派遣して、日本を良い国にしようと努力していました。ところが、南都仏教の反対にあって苦労を重ねることになったのです。最澄は、僧侶を育てるための受戒の道場である戒壇院を建立したいと願っていましたが、朝廷の許可を得ることなく、五十六歳で示寂(じじゃく)されました。
 最澄の弟子に光定(こうじょう)という僧がいました。最澄亡き後、彼の必死の努力によって戒壇院の建立が許可され、比叡山の基礎ができたわけです。
 その後、初代の座主(ざす)に最澄と共に入唐(にゅうとう)した義真和尚(ぎしんかしょう)が就き、二代目には最澄の弟子円澄が就きました。ところが、三代目の座主はなかなか決りませんでした。期待されていた円仁、後の慈覚大師は入唐したままで、武宗皇帝の仏教排斥の難にあって、十年間帰ることができなかったのです。
 当時、比叡山は困窮しておりました。極度の財政難であったといいます。文徳天皇は、見るに見かねて財の支援をされました。天皇は、自分の身の回りを極めて質素にして贅沢を一切しなかった光定を信頼して帰依されていたのでした。
 もし、光定に座主になりたいとの欲があればかなったかもしれませんが、それをしなかったわけです。三代目の座主に円仁が就いたのですが、そのことが決るまで必死になって比叡山を守り、困窮を救ったのです。
 光定の活躍がなかったならば、後の比叡山は違った形になっていたかもしれません。光定の無私の活躍が、後世の日本の仏教や文化に大きな影響を与えたともいえます。光定は、後に別当大師と称されるようになりました。
        (平成20年9月)