(ミニ法話) こころの泉
40.誠を尽くす
江戸時代の末頃、比叡山の麓の安楽律院という寺に慧澄という僧がいました。十歳で出家しましたが、厳しい修行生活に耐えかねて度々実家に逃げ帰ったといいます。その度に母親から追い返され、修行に耐えてのちに徳の高い学僧になりました。
五十一歳のとき、比叡山を離れて江戸に移ることになりました。出立の前に慧澄の講義をよく聞きに来ていた尼僧が訪ねてきて、「私のような者でも必ず極楽に往生できるという秘訣を教えてください」と願いました。
そこで慧澄は、「十万憶土の西の極楽世界や阿弥陀仏は、われわれのこの身この心を離れたものではない。この心を離れて極楽もなければ阿弥陀仏もない。そのため心を浄めて雑念・妄念を起こさないように、阿弥陀仏を念じて心を浄めていくならば、極楽世界が現われてくる」といった内容を難しい言葉で教え示しました。
慧澄は、江戸で学問と講議に明け暮れる生活を続けていました。あるとき、ふと「あのとき尼僧にああいう説明をしたが、本当に解ってくれたのだろうか。往生するかしないかは、人間一生の大事である。迷わせたりしたら大変な罪である。とうしてももう一度会って詳しく話さなければならない」と思い、比叡山麓に帰ったのです。そのときは七十歳を過ぎていました。
尼僧がまだ健在でしたので来てもらい、「あの説明は解ったか」と聞きますと、「あのお話のとうりに心をきれいにしようと思って阿弥陀さまを念じていましたが、凡夫の悲しさで雑念・妄念ばかり起きて、これでは極楽往生など思いもよらないと考えて苦しんでおります」との返事がかえってきました。
「私の説明が足りなかった。阿弥陀仏のお力によって往生させていただくのだから、そのことを信じておれば、雑念・妄念が起きても心配することはない」と分かりやすく説きました。尼僧は大変喜んで帰って行きました。
二十何年も前のことで、しかも説明が足りなかったということで老体を江戸から運んで一人の尼僧のために説いたわけです。尊い誠実さということしか言葉がありません。昔の仏教者にはこのような人物がいたのです。
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