(ミニ法話)  こころの泉

    45.人は平等

 ある原始経典に次のような教えがあります。
 「人にはいろいろな種類がある。心の曇りの少ない者もいれば、多い者もおり、賢い者もいれば、悪い行いの者もおり、教えやすい者もいれば、教えにくい者もいる。(中略)この区別の上に、さらにまた、男女の区別がある。しかし、人の本性に差別があるのではない。男が道を修めて悟りを得るように、女もまた道を修めれば、しかるべき心の道筋を経て、悟りにいたるであろう」
 このことは、人の本来のすがたに差別は無いことを説いています。だが、現実の人間社会には、様々な差別があります。皮膚の色で差別され、貧しいというだけで、汚い仕事をしているだけで差別され、学歴が低いというだけで差別され、根拠の無い風評で差別される場合もあります。
 野宿生活者に対して、少年たちが暴力をふるったり、火炎瓶を投げつけて焼死させるというような痛ましい事件もありました。野宿者への差別心があったようですが、少年たちの行為は、社会の差別の風潮を反映したものと考えられます。
 ブッダは、クシャトリヤ(王族)の出身でありながらその地位を捨て、乞食者(こつじきしゃ)となり、粗末な衣をまとい、牛馬の餌にも等しいような物を食べることがあったといいます。社会の底辺の人々と同じ立場から世の中を見られ、人は平等であり、差別してはならないことを説かれました。弟子たちもその行為を受け継ぎ、人間は平等であることを唱え、実践しました。
 ブッダは、人は生まれによって貴賎があるのではない。その人の行為によるのだとされました。人を差別することは、自らの心を汚し、悪業(あくごう)をつくることであり、そのことが悪縁となって苦果となります。人はこのことに気づかなければならないと思います。

        (平成21年6月)