(ミニ法話)  こころの泉

    47.恥の心

 仏教には懺悔(さんげ)の教えがありますが、現在の仏教界には懺悔の心が失われつつあります。懺悔には、自己の心の中から、犯したことへの罪の意識、苦しみを告白し、自ら清らかな心になって仏道に励んでいくという意味があります。このような強い気持ちが、しだいに修業の形式化、求道心の弱体化で薄れてきているように思えます。
 仏教者だけでなく、一般の人々も懺悔して心を清めようという気持ちが薄れているようです。薄れてきた原因の一つに恥じる心が弱くなってきたということが考えられます。
 恥には、他人に対して恥かしいということと、自分に対して恥かしいということの二つがあります。「人前で恥かしいことをしてはいけない」と子供のときから教えられ、以前は社会の中でこの言葉が生きていました。今の世の中、例えば電車の中で化粧する女性、赤信号を無視して渡る人が目につきます。他人に見られていても恥かしいとは思っていないようです。他人に恥かしいと感じる前に、まず自分に対して恥じなければならないと思います。この自分に対して恥じる心が弱くなっているといえます。
 子が親を虐待する、弱い立場の人をいじめるなど恥かしい行為です。恥かしいことを恥じないことが問題です。恥じないのは、煩悩がはたらいているからです。他人に対して恥じないのは、無愧(むき)という煩悩です。自分に恥じないのは無慚(むざん)という煩悩です。
 電車の中で化粧をしたり、赤信号を無視しても別に他人に迷惑をかけていないと言うかもしれませんが、恥じないのは煩悩ですから、仏教的に言えばこの行為は悪業であり、業の報いとしていつかは自分に還ってきます。化粧をして顔を美しく見せかけていても、逆に心を汚しているわけです。このことに気づく必要があります。。

        (平成21年8月)