(ミニ法話)  こころの泉

    49.仮りの和合

 昔、インドにシーラという名の比丘尼(びくに)がいました。比丘尼とは、成人に達した女性の修行者のことです。ある日、森の中で冥想をしていたとき、ふと次のような思いが出てきました。
 「人というものが存在しているとされるが、これは誤った考えである。空しき集まりがあるだけで、人というものは存在しない」
 人という実態があると考えているが、それは間違いであり、錯覚であって、人という実体はないとの意味です。
 人という実体はないとされると、われわれは一体どのような存在なのかということになります。車を例にとりますと、車のどこをとって車といえるのか。ハンドルをとって車といえるのか。タイヤなのか。これらは部品の一つであって車とはいえません。多くの部品を集めて形にして、機能をもたせてはじめて車といえるものです。
 人も同じことです。手だけで人とはいえません。足だけでもいえません。手足や頭などすべての部分が集まり、機能することによって人といえるのです。人は、多くの要素が寄り集まっているのであって、仮に和合しているだけなのです。仏教では、このことを仮和合(けわごう)と言っております。
 人の細胞は、60兆個あるとされています。60兆の細胞が集まって人となっているのです。仮りに細胞が集まっているだけということです。仮りの和合ですから、何かの縁で和合が変り、壊れるときがあります。それが病気であり、死です。しかし、多くの人々は仮りの和合と考えずに、人は実体として存在しているととらえています。つまり、自分にしがみついているわけです。そのため、そこから苦悩となってきます。
 人は仮に存在しているだけであるとうなずき、自分にしがみつくことを止める必要があります。
 

 
        (平成21年10月)