(ミニ法話)  こころの泉

   52.古仏

 道元禅師は24歳のとき宋に渡り、天童山景徳寺の如淨禅師の元で見性体験をしました。28歳で帰朝したわけですが、その一年後に天童山の修業仲間であった中国僧寂円(じゃくえん)があとを追ってやってきました。寂円は、道元禅師より7歳年下でしたが、天童山では先輩にあたります。道元禅師の修業態度に打たれて弟子になったとされています。
 道元禅師は、京都の建仁寺、深草の安養院、宇治の興聖寺、越前の吉峰寺、永平寺と移り変りましたが、寂円はその間ずっと随伴してきました。道元禅師亡き後、懐奘(えじょう)が第二世として永平寺を継ぎました。本当は寂円が継いでも不思議ではなかったのですが、円弱は永平寺を去って越前大野の山に入り、坐禅に徹する道を選びました。
 その後、地元の豪族の帰依を受けて宝慶寺(ほうきょうじ)の開山となりました。宝慶寺に坐禅堂が完成するまで、山中の石の上や樹の下でただひたすら坐禅を修したといいます。寂円は、亡くなるまでの四十数年間、坐禅に励み、道元禅師の供養を続けたとされています。
 寂円が宝慶寺から下って村落に托鉢に出かけたとき、いつの頃からか一頭の牛と一匹の犬が托鉢のお伴をしたと伝えられており、寂円の使用した頭陀袋と共に、牛と犬の首につけていた頭陀袋が今も宝慶寺に残っています。寂円の人柄を彷彿とさせるような逸話だと思います。
 宋からはるばる日本にやって来て、道元禅師に従って修行し、師亡きあと四十数年間名利を離れ、坐禅と道元禅師の供養に徹した寂円はまさに古仏(こぶつ)と7いえる僧であったと思われます。
 往古には、このように強い信念で求道に徹した僧がいたのです。

        (平成22年1月)