(ミニ法話)  こころの泉

   53.本当の仏像

 東南アジアや台湾、中国に旅行して仏像を買ってくる人がいます。安価で購入しやすいのでつい買うのでしょうが、ほとんど置物として利用しているようです。外国ではよく見えた仏像も、家に置くと顔や姿に何か違和感を感じてふさわしくないと思うようになり、仏像だから粗末にできないということで、処分に困ってしまうようです。
 拝む仏像として購入し、信仰の対象とするならばともかく、置物として仏像を買うことは止めたほうがいいと思います。そのような仏像には、造った人の心が生きてきません。
 本来、仏像は施主と仏師の関係で造られるものです。立派な仏像ができるかどうかは。施主の心持ちにあるといえます。施主の本当の仏像を拝みたいという強い心の願いにあるということです。施主は彫ることはできませんが、立派な仏像が欲しいという願う心があるはずです。
 ある仏師は、「施主はもっと仏像について勉強してもらいたい」と言っていました。施主が熱い思いをぶつければ、仏師もそれに応えざるをざるを得ないのです。
 昔の仏師は、技術を磨くことに切磋琢磨したとされています。美濃紙を三枚重ねて板の上に糊でかたく張りつけ、それを刀で元の三枚に剥がすだけの腕前があったといいます。また、人の髪の毛を縦に五筋切るような腕がなければ、一人前の仏師とはされなかったとのことです。
 このような技術をもっっている仏師が、古来仏像を彫ってきたのです。本当の仏像を拝みたいという施主の強い心と、卓越した技術をもっている仏師によって造られた仏像が、今でも生きているのです。そのような仏像に接すると、思わず手を合わせたくなるものです。現代にはセメントで造られている仏像もありますが、本来の意味からすれば、それは仏像とはいえないものです。

        (平成22年2月)