(ミニ法話)  こころの泉

   54.努力の維持

 日蓮上人は、信について次のように説いています。「法華経を信じている人には、いろんな人がいる。ある人は、火の如くに信じる。ある人は、水のように信じる。火のように信じる人は、教えを説いているときは、ありがたいと感激して聞いている。ところが時間がたつと、いつの間にか忘れてしまう。水のように信じる人は、聞いているのか聞いていないのか分からぬような顔をして聞いている。感激しているのかしていないのか分からぬような顔をして聞いている。ところがいつまでたっても退くということはない」
 感激して火のようにすぐに熱くなる人は、時間がたつと感激も熱も冷めて、いつの間にか信を止めてしまう。逆に熱くならない人は、長く続けることができて、信が深まるとのことです。
 日本人は、熱しやすく冷めやすいといわれています。言うなれば、火のように信じる人が多くて、水のように信じる人は少ないということです。ブッダは、「毎日怠ることなく努力するならば、どんなことでもできるのである。だから努力を続けなければならない。たとえていえば、少ない水でも絶えず流れていると、石に穴をあけてしまうことと同じである」と、『遺教経(ゆいきょうぎょう)』で説かれています。
 平安時代の始めに、奈良に明詮(みょうせん)という僧侶がいました。唯識を学んでいましたが、いくら勉強しても分からないので、限界を感じて寺を出ようと思って門までやってきました。雨が降っていたので、しばらく雨やどりをしていました。門の屋根から雨だれが落ちているのを見ていて、ふと敷石に穴があいていることに気づきました。敷石の穴を見て、ブッダのこの教えを思い出したのです。明詮は寺を出ることを止めて、再び学問に励んで高僧にまでなったそうです。なにごとも粘り強く努力を続けたいものです。

        (平成22年3月)