(ミニ法話)  こころの泉

  56.誠心の供養

 昔、インドに貧しい女性がいました。ある日、ブッダに供養しようと思い、祇園精舎に出かけました。途中、飢えた犬を見てその犬を哀れに思い、食べ物を与えてしまいました。そのため、何も持たずに祇園精舎にやって来たのです。ブッダはそのことを知って、犬に与えるのと私に施すことは全く同じであると言われ、「汝は、大施主である」と称えられたといいます。供養する物より施す人の供養の心が大切であるとの教えです。
 『観音経』には、無数といっていい程の観音様の名を称えて無量の物を供養した功徳と、わずかの数だけ観音様の名を称えて少しの物を供養した功徳は同じであると説いています。称名の数や施物の量の多少よりも、礼拝し、供養する心が大切であることを説いたものです。
 ダルマ大師が、南インドから中国にやって来たときのことです。梁の武帝が、「私は多くの寺を建て、経を広めて仏法のために尽くしている。功徳をいただけるだろうか」とダルマ大師に尋ねました。すると大師は、「無功徳」と答えました。「私は皇帝である。その皇帝がこれだけしていることに無功徳とは何事か」と怒る武帝に、「知らぬ」と突き放しました。多くの立派な寺を建て、経を広めても、功徳などないと断言したわけです。功徳を求めずに寺を建てるだけであったならば、そのことが功徳になったのですが、武帝は欲心を起こしてしまったので、功徳などないとダルマ大師に鋭く指摘されたのです。
 仏教では、施しをする人と施しを受ける人、それに施しの手段となるものの三者は空で清らかでなければならないとされています。このことを三輪清浄(さんりんしょうじょう)といいます。「私があの人にこれこれをしてやった」との思いがあれば、その施しの行為は清浄な心から出たものではありません。そのため、折角の施しも価値が低くなってしまいます。

        (平成22年5月)