(ミニ法話)  こころの泉

  58.隠れた力

 昔、中国に紀省子(きせいし)という闘鶏の調教師がいました。王のために闘鶏を育てていました。闘鶏を訓練して十日たったとき、「もう闘えるか」と王が催促してきました。紀省子は、「この鶏はまだ虚勢をはっているから駄目です」と言って、訓練を続けました。また十日たつと王が、「もう闘えるか」と聞いてきましたが、「まだ相手の動きに心を動かすところがあるから駄目です」と断りました。さらに十日たって王が尋ねたとき、「もうよろしいでしょう」と答えました。こうして訓練を受けた鶏は木鶏(ぼっけい)のようであったといいます。この鶏を見て、どんな相手も闘う前から気力を失って逃げだしたということです。木で作った鶏のような平凡な姿が最高の闘鶏であるとのことです。
 戦国時代に塚原卜伝という剣の達人がいました。晩年は、見かけはただの老人といった姿をしていました。刀を持たずに旅に出ていたとき、ある村で盗賊が子供を人質にとり、小さな辻堂に立て籠もっているのに遭遇しました。子供の両親をはじめ村人や役人は、ただなりゆきを見ているだけでした。
 卜伝は、近くの寺から借りてきた衣を着け、村の人にたのんで作ってもらった握り飯を持ってお堂に近づいて行きました。
 卜伝は、にこにこ笑いながらお堂の中に入って行って、「お前さんは腹がすいているのでしょう。子供もすいているはずだからこれを食べさせてやってください」とたのんで握り飯を差し出したのです。そして、「一緒に食べましょう」と言って卜伝も食べ始めました。夢中になって食べている盗賊の隙を見て、卜伝は盗賊を捕まえたということです。
 剣の達人である卜伝が刀を構えていれば、盗賊は警戒して子供を殺したかもしれません。能力のある人の本当の力は、隠されているものです。

        (平成22年7月)