(ミニ法話)  こころの泉

  60.二種の人

 西洋の工芸品は、作り終わったときが一番完成しており、その日から古物になるとの考えがあります。反対に日本の工芸品は、出来上った物は未だ過程の中にあって、本当の良さはそれから徐々についてくると言われたりしています。これが西洋の工芸品と日本の工芸品の違いだというわけです。
 このように指摘されると、なるほどとうなずくことがあります。たとえば、抹茶茶碗を手入れして使っているうちにお茶がしみこんでさびがついてきて、味わい深いものとなってきます。こうなると年月と共に値打ちがついてくるように思えてきます。
 このような二つの比較は、人にも当てはまるのではないかと考えられます。一つは、一生の間に立派な成果を上げても、死んだその日からしだいに忘れられていくというかたちの人です。政治家のような人は、おそらくこれに当てはまるのではないでしょうか。ちょうど西洋の工芸品のような人と言えます。
 もう一つは、生涯の間に立派な成果を上げているが、それで完成というのではなく、その人の本当の価値は、死んだその日からしだいに上ってくるというかたちの人です。このような人は、宗教家に当てはまるものと思われます。ブッダがそうでしょう。イエス・キリスト、ムハンマドなどがそうです。
 ブッダは、八十歳の生涯を終えられるまで法をお説きになりましたが、活動は入滅で終わったのではありません。はたらきは、亡くなられたそのときからも続いているといえます。身体は滅しても、正法(しょうぼう)は永遠に続いていくものです。そういう意味で、ブッダは今でもはたらいておられるのです。それはブッダが永遠の法を体得され、その法を説き続けられたからです。
 正法は、過去・現在・未来の三世(さんぜ)を貫ぬいているものといえます。

        (平成22年9月)