(ミニ法話)  こころの泉

   65.恕のおしえ

 孔門十哲の一人子貢(しこう)の「人間が一生の間実践すべきものがありますか。一言で教えてください」との問に対して、「それは恕(じょ)である」と孔子は答えました。恕の字の如は汝と同系の言葉で、自分と同じような相手という意味を含んでいます。心と如の会意文字が恕ですから、相手を自分自身と同じように見る心、つまり恕は思いやりという言葉です。
 今の日本人には、この思いやりの心の欠けている人が増えているように思います。自分さえよければいいというようなわがままを小さな時からしていれば、成人してどのような大人になるのか想像すれば誰にでも分かることだと思います。
 混み合っている電車の中で、体が触れたということで初老の分別のある年齢の男性が喧嘩をしていました。また、杖をついたお年寄りを前にして、全く無視して携帯電話のメールに夢中になっている若い女性がいました。ある人に思いやりの心の大切さを話したところ、「損だ」と言いました。目先の損か得かで行動する人が多いと感じていましたので、別に驚きはしませんでしたが、自分のことしか眼中にない情けない考えだと思います。
 自己中心的な考えを持っていると、自分にとって損か得かで判断し、わずらわしいことを避け、他人への関心が薄れるのではと考えざるをえません。人に思いやりの心で接することは、自ずと自心を浄めることになります。この積み重ねが求めなくても徳を積むことになり、いつかは善果を受けるようになるものです。
 一人一人が思いやりの心で人に接するという行動が拡がっていくならば、少しは温もりのある世の中になっていくものだと思います。そんな世の中から、お互いに恩恵を受けることになるのです。

        (平成23年2月)