(ミニ法話)  こころの泉

     72.信と解(げ)の調和

 ロシアの文豪トルストイの母は、大変敬虔なキリスト教の信徒でした。その影響を受けて、トルストイも子供の頃から神を信じていました。12、3歳の頃、ある友人と学校の運動場を歩いていたときのことです。トルストイは、母親から聞いていた通りに、「神はありがたい」と友人に伝えました。すると友人は、「神などいない」と否定しました。その一言で10年来築いてきた信仰が崩れてしまい、そのとき以来トルストイは無信仰になってしまったとのことです。
 これと同じようなことは、わが国でもあります。子供の頃、祖父母や両親に連れられてお寺へお参りしていたが、成長と共に嫌になってしまったという話が昔から多くあります。これらの話は、信が崩れてしまった例です。「ありがたい」と信ずるだけでは駄目で、なぜありがたいのか分からずにいると、何かのきっかけで信が崩れてしまいます。中途半端な信だと迷いや疑いが出てきて、信が挫折してしまいます。
 そのため信の他に解(げ)が必要です。解とは、理解することです。しかし、理解も気をつけなければなりません。理屈ばかりこねるようになって信がなくなってしまう恐れがあります。理屈で考えれば考えるほど、次から次へと疑問が涌いてきて限りがありません。その結果、理屈倒れになってしまいます。
 結局、信と解をどのように折りあいをつけるかということになります。信から入って解という土台をつくる道がありますし、解から入って信を得るという道もあります。これを信解円通(しんげえんつう)といいます。『涅槃経』に、「信解円通してまさに行いの本となる」とあります。信と解の調和が、真実を求める行いの本になるとの意味です。大切な教えだと思います。

        (平成23年9月)