(ミニ法話)  こころの泉

     73.教えの浅深

 心の迷いや苦悩から離れるために、仏教の教えを求めることがあります。仏教の教えは、水のようなはたらきをします。水は、汚れたものを清らかにします。水には川の水があれば、池の水もあり、井戸の水もあります。このように水のある所は違っていても、水のはたらきは同じです。机の上が汚れていたならば、少しの水で汚れを取ることができます。床の汚れならば、バケツ一杯の水が要ります。家中を掃除しようとすれば、さらに多量の水が必要となります。わずかな汚れは少しの水でいいが、大きな汚れは多くの水を要します。
 このことと同じように、仏教の教えは迷いや苦悩を洗い流すことです。迷いや苦悩が小さければ浅い教えで洗い流すことができますが、大きければ浅い教えでは駄目で、深い教えでなくてはなりません。
 仏教の教えは、同じ言葉で表わされていても、とらえ方によってその中に含まれている意味が違うことがあります。たとえば、人のものを盗んではいけないことを例にとりますと、なぜいけないかという理由は、とらえ方によって異なってきます。
 浅いとらえ方では、盗むと盗まれた人が困るから盗んではいけないとなります。少し深くなりますと、盗むことは恥ずかしいことだからいけない。もう少し深くなりますと、自ら悪業をつくることであり、その悪業は報いとなって自分に悪い結果をもたらすから盗んではいけないとなります。さらに深くなりますと、人は人を救わなければならないのに、盗むことは人を救うことと反対のことであるから盗んではいけないとなります。
 このようにとらえ方に浅深があるので、教えの内容を充分吟味する必要があります。そうすることによって、教えが生かされてくるといえます。

        (平成23年10月)