(ミニ法話)  こころの泉

       74.喜ぶ功徳

 昔、インドのある王様が、二人の絵描きに壁に絵を画くようにと命じました。一人の絵描きは、すぐに壁に絵を画き始めました。もう一人は、壁を磨き始めました。何日たっても壁を磨いて、絵を画こうとしません。二ヶ月程たって王様ができばえを尋ねると、二人共「できました」と返事をしました。描かれた方の壁を見ると、きれいに画かれていたので、絵描きをほめました。もう一方の壁を見ると、何も画かれていません。そこで王様は、「絵が画かれていないではないか。壁磨きを命じたわけではない。どうして画かなかったのか」と詰問しました。すると絵描きは、「そうおっしゃらずこの辺で見てください」と言って、適当な位置に王様を案内しました。壁に描かれた絵が何とも美しく写っていたのです。王様は大変感心して、この絵描きもほめたということです。
 自分の思い通りにならなかったのにほめた王様は、功徳を積まれたといえます。人が善いことをしたのを喜べば、善いことをしたのと同じ功徳がある、いやそれよりももっと功徳が大きいといわれております。善いことをした人の功徳を一とすると、喜んであげた方の功徳はその十倍はあると言われたりしています。これはおかしいではないかと思われるかもしれません。喜ぶ人の功徳よりも、善いことをした人の功徳の方が大きいと普通考えます。しかし、考えてみるとうなずける点があります。善いことをしたといっても、我欲でしたかもしれません。我がはたらいて行ったかもしれません。ところが我がはたらいていれば、喜んであげることはできないものです。我のはたらいていない心でないと、喜んであげることはできないものです。そのため我のはたらく心よりも、我のはたらいていない心のほうが功徳が大きいといえるのです。
 王様は、大きな功徳を積まれたということです。

        (平成23年11月)