(ミニ法話)  こころの泉

      79.あるブッダの態度

 あるとき、ブッダはシャーリプトラの求めに応じて、修行僧たちに法を説こうとされました。「今まで数多く教えを聞きましたが、一番勝れた教えをお説きください」とたのまれたからです。ブッダが説法を始められると、何人かの修行僧たちが座より立って、ブッダに礼拝して出て行ってしまいました。
 彼等は、それなりに修行して十分だと満足しているときに、さらに深い教えを聞き、今までよいと思っていたことが否定されるのを嫌ったということです。手の指が傷ついたとき、消毒をして殺菌しなければなりません。消毒すると痛いので嫌だとして、そのままにしておくと、後で化膿しかねません。傷を治すには、一時の痛みを我慢しなければならないはずです。
 このことと同じで、ブッダの深い教えを聞いて、誤った見解を正すことが大切なのですが、自分の誤りに気づくことを嫌ったたわけです。自分は十分だと思っているのに、未熟さに気づくことから逃げたということです。そこを我慢しなければならないはずです。我慢できないで、自分の不十分さから顔をそむけようとする人は、それ以上向上できない人です。自分より力のある人から教えを聞いて、今のままでは駄目だと気づいて、そこから努力を続けることはつらいものですが、それを始めなければ向上はそこで止まってしまいます。
 ブッダは、何も言わずに修行僧たちを見送られました。出てゆかずに私の話を聞けと言うのも一つの方法です。出てゆくのを黙認して、止めないのも一つの方法です。ブッダは何も言われなかったが、見放したのではありません。修行僧たちが未熟さに気づいてもどって来るの待とうという姿勢です。ブッダの態度は冷たく見えるかもしれませんが、これも慈悲といえるものです。

        (平成24年4月)