(ミニ法話)  こころの泉

       81.南無の心

 あるとき、ブッダは修行僧たちの前で、シャーリプトラは将来仏になることができると言われました。それを聞いたシャーリプトラは大いに喜び、右の肩を肌脱いで、右膝を地に着け、一心に合掌して恭しく礼拝しました。日本では人の前で片肌脱ぐことは失礼にあたりますが、右の肩を肌脱ぐのは、私はあなたに帰依しますという表現なのです。そして、右膝をひざまずくのは、敬意を表示したものです。
 また、仏教では、右と左の関係が説かれています。左は理、右は智を表します。理は道理、智は道理を実践する力です。道理が分っただけでは駄目で、その道理を実行する力がなければ、道理は生かされないということになります。そのため、理と智の両方が必要となってきます。
 右の肩を露わにして右膝を地に着けたということは、ブッダの尊い教えを実行しようという心持ちを示したものです。教えを理解しただけでなく、必ず実行するとの決意がなければ、帰依したとはいえないということです。
 そして、シャーリプトラは、一心に合掌しました。合掌は両手を合わせた形で、理と智が一つになったものです。これを口に出して言えば、南無(なむ)となります。南無を形にすると、合掌になるというわけです。南無には、仏を信じ、敬い、仏を信頼するという三つの意味があります。「南無釈迦牟尼仏」と拝むときには、ブッダを信じ、敬い、ブッダを信頼するという心を持つ必要があります。それがなければ、南無の心にはなっていないといえます。
 世の中で多い信心のかたちは、信じることや敬うことよりも、願うことに力を入れているのが現実です。願うだけでは、信心とはいえないと思います。

        (平成24年6月)