(ミニ法話)  こころの泉

       82.行捨の人

 仏教に捨の教えがあります。捨には多くの意味がありますが、捨てるという内容で話したいと思います。捨てるとは、かかわりから離れるということです。離れる必要があれば、いつでも離れられるとの心をもっていることです。有れば有るでよい、無ければ無いでよいという心でいられるということです。そして外に向かって求める心がなくなった状態を行捨といいます。
 三国時代、諸葛孔明が南陽の田舎に隠遁していたとき、劉備という王が三顧の礼を尽くして孔明を迎えました。28歳で大臣になったわけですが、いかなる命令を出しても、命令がよく通ったということです。それは、彼が何も求めなかったからとされています。別に大臣になりたくてなったのではありません。そのため大臣の地位にしがみつく気持ちはなく、いつ止めてもよいとの覚悟をもっていました。このような覚悟をもっている人には、私利私欲がありません。私利私欲のない人には信用ができ、信頼されるようになります。そのため周囲の人たちは、孔明の命令をよく聞いたということです。
 高い地位を得たら性格が変わって権力を笠に着ていばったり、地位を利用して私欲に走ったりすることが多いものですが、そのことが全く無かったので人々はよく命令を聞いたわけです。
 一日でも長く大臣を続けたいというような人の言うことを聞く者はいません。いつでも止められるという無私の人だからこそ命令をよく聞くのだといえます。
 金が無くても平気であるという人に金を持たせると善いことに使います。地位などいらないという人に地位を与えると善い仕事をします。逆に、金が欲しいという人に金を持たせると悪いことに使い、地位が欲しいという人に地位を与えると悪事に走ってしまう恐れがあります。行捨の人が本当の仕事のできる人だといえます。
        (平成24年7月)