(ミニ法話) こころの泉
86.迷妄をこえる
「幼児(おさなご)が次第次第に知恵づきて、仏に遠くなるぞ悲しき」という古人の歌があります。赤ん坊のとき仏さまのようであったが、成長するにしたがって知恵が出てきて、仏さまのような心から離れていくのは悲しいことである、との意になります。赤ん坊の心は無邪気であり、無我であるから仏さまと同じ純な心であると言われたりしますが、この見方は誤っていると思います。
赤ん坊の無邪気さや無我のふるまいは、「自分が」との自我がまだ出ていないときのことであり、もって生まれた本能のままの行動といえます。一方仏の無我のふるまいは、自我のはたらきを越えたところから出てきたもので、根本的に違いがあります。
人は成長と共に、「自分が」という意識が出てきます。これは我執になり苦悩の原因にもなりますが、生きる上で必要な意識です。この意識は、次第に親子、兄弟、友人、人との関係、社会との関わり等というように自分と他というとらえ方に発展していきます。また、自分中心にものごとを考えるようになり、人との対立や苦悩・迷いの原因にもなってきます。そのためどうしても自己を抑制する教えが必要となってくるのです。
しかし、自分中心の迷執の上に打ち立てられた教えは、いつかは必ず破綻をきたします。たとえば猿は、猿使いの言葉によって上手に芝居を演じます。猿使いが「まだ来ぬか」と言うと、猿は人を待っているような仕草をします。そこに観客がお菓子を放り投げると、芝居を忘れてお菓子を取りに行き、芝居どころではなくなります。
迷妄の上に打ち立てられられた教えもこのようにあやふやなものです。人は自分の利益となると、道徳など無視してしまいます。そこで、自分中心に考えようとする自我の迷執を打ち破る教えが必要となってきます。仏教にはその教えがあるといえます。
(平成24年11月)
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