(ミニ法話)  こころの泉

        87.拝む心

 小学生のグループが、奈良へ旅行に行ったときのことです。始めに興福寺の南円堂に行きましたが、南円堂を外から拝観しているだけで誰も拝むことはしません。先生も手を合わすことはしません。次に東大寺の大仏殿に行っても、同じようにただ大仏を眺めるだけで合掌する生徒は誰もいません。それから春日大社に行っても眺めているだけです。奈良公園には、鹿がたくさんいます。食べ物を求めて生徒たちの方へやって来ました。中にはせんべいをあげるどころか、鹿を殴ったりする者もいます。鹿は逃げますが、その鹿を追っかけたり、石を投げたりする者もいます。そんな中でひとりの女子生徒が、逃げていく鹿の後姿を拝んでいたとのことです。逃げていく鹿を拝むという女子生徒の心はどんな心なのでしょうか。
 私事になりますが、ある親しい家に行ったとき、疲れていたので少し横になって昼寝をさせていただいたことがあります。眼がさめかけたとき、背後に人の気配がするので注意していると、その家の五歳の男の子が坐って合掌して私の後姿を拝んでいました。その家は特に仏教信仰があるとはいえないのですが、拝む子供の心はどのようなものなのでしょうか。
 鹿を拝む心も、人を拝む心も根底は同じものだと思います。女子生徒にも五歳の子にも純粋な形のない不可思議な何かがはたらいていたのではないでしょうか。その純粋な形のない何かを言葉で表現すると、生まれながらにもっている清浄心と言ってもよいかと思います。清浄心を如来と言いかえることができます。二人の子供に如来がはたらいたとも言えます。それが縁によって拝むというかたちになったということです。
 人は誰でも拝む心をもっているのに実行できないのは、拝む心が隠されているからだと思っています。

        (平成24年12月)