(ミニ法話)  こころの泉

        88.やすらぎを得る

 雲が拡がってきて大地に雨を降らします。大地には無量無数の樹木や草が育っています。雨は同一の大地に平等に降り注ぎます。小さな草だから少ししか降らない、樹木だから草より多く降る、大木だから大量に降るなどということはありません。雨は大地に降りますが、草や樹木はそれぞれの分に応じて吸収します。草はわずかな量しか吸収しません。小さな樹木は小さいなりに吸収し、大きな樹木は多くの水を吸収します。降った雨の多少にかかわらず草は草なりに、樹木は樹木なりにということです。
 それと同じように仏の教えは、すべての人々に平等に説かれています。しかし、その教えをどのように活かすかは人によって違ってきます。教えを積極的に学んで身につけようとする人がいれば、少ししか理解しない人もいます。また、全く興味を示さない人もいます。積極的に取り入れようとする人は善なる人であるが、少ししか理解しない人は駄目ということではありません。
 それぞれの人が教えを聞いて満足し、やすらぎを得ることが大切だと思われます。わずかしか理解できなくても、心が満たされてやすらぎを感じる人がいれば、積極的に学んでも心が満たされない人もいます。心が満たされなければ、やすらぎを得たとはいえません。つまり、教えを吸収する量ではないということです。大切なことは、教えを聞いて安らぎを得るかどうかです。このことは自分の問題であって、良否を論じることではないということです。
 ブッダは、「真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、やすらかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ」と説かれています。真理を喜んで受け入れる人の心は清浄であり、やすらかであるとの教えです。正しい教えを学んで、やすらぎの心をもちたいものです。

        (平成25年1月)