(ミニ法話)  こころの泉

        90.声で味わう

 あるとき、ブッダは「いろいろなものをたくさん見たり、たくさん聞いても、それで悟れるというものではない。多く見たり聞いたりするのは、譬えてみれば匙で物をすくうようなものである。匙は冷たい水でも、熱い湯でも、甘い蜜でも、辛い塩でもすくうが、匙そのものは少しもそれらの味が分っていない。匙は冷たいとか、熱いとか、甘いとか、辛いとか何も感じていない。多く見たり、聞いたりしただけの人も、それと同じことである。汝等は匙になってはいけない。冷たい中、熱い中、甘い中、辛い中をただ通りすぎて、少しも甘くも辛くも感じない匙のようになってはならない。本当に自ら味わって自分のものにしなければいけない。」と説かれました。
 われわれは、仏の教えを経典や論書などから学んでおります。教えを言葉や文字を通して学んでいますが、言葉や文字が教えのすべてを表しているということではありません。教えの真理・真実は言葉や文字では表現できないからです。言葉や文字には、限界があるということです。
 しかし、言葉や文字で真理・真実を説けないとしても、それらによらなければ教えを知ることも、学ぶこともできません。そのため、まず言葉や文字から学んで意味と内容を理解し、表現できない真理・真実をとらえるようにすることが手順だと思われます。これは実修の問題となってきます。
 その第一歩は、古くからずっと行なわれているように、声を出してお経を唱えることです。一字一字に心を入れ声を出して何度も唱えていると、何となしにありがたさを感じるようになってきます。唱えることに一心に集中することにより、声と自心が一つになってきて、仏の教えが全人格に染み込むようになってきます。これが、声で味わうということです。

        (平成25年3月)