(ミニ法話)  こころの泉

        96.善輭の心

 『法華経』に善輭(ぜんなん)の心という言葉があります。ここに言う善は倫理的な善悪の善ではなく、不完全な状態から完全になるように努力する心を言います。その反対の悪は倫理的な悪でなく、不完全さに満足することです。
 たとえば、水を熱すれば湯になり沸騰もします。沸騰した水を冷やすと冷たくなって氷になります。熱湯と氷は別のものですが、本来は同じ水です。同じ水を熱すれば湯になり、冷やせば氷になるわけです。これと同じく今は凡夫であっても、精進を続け境地が深まれば、悟りに達して仏になる可能性が出てきます。反対に怠惰な生活を続けて煩悩に支配され、堕落して悪業を重ねて悪人になるかもしれません。このように心のもち方で善にもなり、悪にもなるということです。
 ブッダの入滅から約百年後にインドを統一したアショーカ王は、カリンガの戦いで約十万人のカリンガ国の人を殺したとされています。そのことから残忍アショーカと呼ばれていました。しかし、仏縁ができて仏教に帰依するようになり、法による政治を志しました。インドのいたるところに磨崖法勅や石柱法勅などによる碑文を建て、多数の仏塔を建立しました。このように暴虐であった人が悔悛してインド全土に仏教的政策を施すようになったのです。これも善です。
 次に輭とは、やわらかい心のことです。やわらかい心とは、今を満足しない心、今の自分にとらわれない心です。今の自分に満足することは心が固定化して自在なはたらきとはならず、そこで止まっていることです。
 つまり善輭の心とは、今をもってよしとしないで、しかも今の自分にとらわれずに、さらに精進しよう、前に進もうと努める心のことです。

        (平成25年9月)