(ミニ法話)  こころの泉

       100.生死を離れる

 仏教に生死(しょうじ)という用語があります。字の通り生きること死ぬことの意味だけではなく、人生の迷い・苦しみを表した言葉です。
 人は腹が立ったとき、憎しみの心をもつことがあります。憎しみの心が高じて殺意を抱くことさえあります。これは地獄の心です。また、もっと金が欲しい、物が欲しい、まだ足りない、満足できないと貪る心が生じれば、これは餓鬼の心です。さらに、智慧がはたらかずものごとの道理に暗くなり、悪業を重ねるのは畜生の心をもつといえます。しかし、いつもこのような心の状態にあるのではありません。人の心は縁によって悪の心になったり、浅ましい心、よこしまな心になったり、そうかといえば善の心に、またやすらかな心になったりもします。このような心は凡夫の心の状態です。凡夫の心は常に揺れ動いており、変化して迷い・苦しみとなります。
 そのため生死から離れる努力が必要となってきます。その実践の基本は、心を静めることです。その結果そして迷い・苦しみから離れることができれば結構なことですが、この段階ではまだ満足できないものがあります。それは自分の心が浄まって自分だけが救われているだけで、自分一人が救われて満足している段階だからです。このレベルからさらに一段高めていく必要があります。
 自分だけ救われて何になろう。世の中の迷い苦しんでいる人々が救われるように念じよう。自分も救われるが、人々も救われるように努力していこう。このような心になってはじめて生死を離れる心になったとういことができます。
 本来、人は自分のことばかりではなく、人々も救われればよいとの願いをもっているものだと思います。人が救われることは、自分も救われることでもあります。

        (平成26年1月)