(ミニ法話)  こころの泉

       104.仏の道のたとえ

 『法華経』に次のような話があります。
 大変長くて険しい困難な道がありました。その道は人里離れた所にあり、獣が出てくるような恐ろしい道でもあります。その困難な道を越えていけば、多くの宝がある場所へ到着できるというので、大勢の人がそこを目指して歩いていました。その中に道にくわしく、智慧のすぐれた道案内人がいました。彼は、その道がどんな道であるのか、険しい所はどこなのか、獣が出てくるのはどこの場所なのかをよく知り尽くしていました。その道案内人を信頼して行けば、宝物を手に入れることが出来るはずです。
 だが、大勢の人の中には足の弱い人がおり、根気のない人もいて、途中で疲労する人も出てきました。宝物が手に入ることを疑って、元の所へ帰るという人も出てきました。道案内人が励ましても、歩こうという気力がなくなってしまったのです。
 以上の話は、折角仏の道を歩んでいても、途中であきらめてしまうことを喩えたものです。人は誰でも人生の目標を持ち、充実した人生を過ごしたいと願うものです。しかし、残念ながら努力しても報われないこともあります。善いことをしても、悪い結果になることもあります。そうなったとき一度や二度は我慢できても、何度も思い通りにならなければ我慢することが嫌になってしまいます。
 仏の道も同じことがいえると思います。熱心に行じていても境地が深まらず、むしろ退いているのではと自信を失い、迷ってしまうことがあります。壁にぶつかったように思い、気力が萎えてしまうこともあります。それてもじっと耐えて前を向いて続けていれば、境地は開けていくものです。一番残念なのはあきらめてしまうことです。今までの努力と功徳が無駄になってしまいます。
 人生も耐えなければならないときには、耐えることによって開けていくものだといえます。

        (平成26年5月)