(ミニ法話) こころの泉
105.徹する姿
作家の吉川英治氏は、かつて東京祭りで美人コンテストの審査員に選ばれたことがありました。隣に映画監督の吉村公三郎氏が坐っていましたが、美女たちがステージに出てきても、居眠りばかりしていて少しも見ていなかったそうです。この人は映画の撮影で女優さんばかり見ているので、美人は見飽きているのかなと吉川英治氏は思ったそうです。
美人コンテストが終わって、次に余興にはいりました。そのとき、深川の老火消したちが舞台の上で木遣りを歌いました。その歌が始まった途端に吉村氏は顔を上げて、目を輝かせて「すばらしいな。すばらしいな」と感嘆したそうです。吉川氏が「何がすばらしいのだ」と聞くと、「あのおやじさんたちの顔を見ろ、あの顔には三昧がある。すばらしい」と繰り返していたといいます。
吉川英治氏はそのことについて、「先の美女達には三昧がなかった。ただ美しいというだけで何もなかった。ところが火消しのおじいさんたちは、火事のない平生は仕事師として生活していた。危険な仕事に従事してきた。そしていざという時には、今度はまといを担いで火事場に駆け付ける。その仕事があの年寄りたちの顔のしわの一つ一つに刻み込まれている。その人たちが晴れがましい舞台の上で木遣りを歌うことなど一世一代のことだろう。彼らはそれに感激して、本当に三昧になって歌っている。それを見て吉村氏は感嘆の声を上げたのだ」と書いています。 三昧は本来仏教の言葉で、深まった境地のことをいいます。ここに言う三昧は、「それになりきっている」との意味だと思われます。自分の顔に職業、人生が現われるものです。少し前までは職業が体に現われていました。今は聞かないと分らなくなってきました。それだけ職業になりきって徹する人が少なくなってきたのでしょうか。
(平成26年6月)
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