(ミニ法話)  こころの泉

      106.恩を施す

 人は生まれながらに仏になる種子(しゅうじ)、可能性をもっていると説かれています。迷い・苦しみの多いわれわれ凡夫が、仏に近づいていくことができ、救われるということに対して感謝の念が起こり、喜びが生れてきます。そこから親鸞聖人が、「如来大悲の恩徳は、身を粉(こ)にしても報ずべし」と言われているように、恩に報いたいとの心が生じてきます。
 仏の恩に報いるために、仏に供養することが説かれています。経典には、手や足を差し上げるとか、下男下女を差し出すということが記されています。これらは不思議な表現です。これを文字通りに採る人もいますが、何も手や足を切ってそのまま差し上げることではありません。手による努力、足を使っての努力を捧げるとの意です。また同様に、下男下女の努力を捧げるとのことです。さらに香木や珍しい宝を飾りとして差し上げるとか、塔や寺を建立して供養するとの表現もあります。
 しかし、『法華経』には、頭を地に着けて礼拝したり、あらゆる供物でもって供養しても、仏のご恩に報いることにはならないと説かれています。 
 それではどうすれば仏のご恩に報いることになるのでしょうか。仏は何も報いを望んでいるのではありません。自分に対して何か供養せよと思っているのではありません。仏へのご恩は、他の人へ恩を施すということです。多くの迷っている人、苦しんでいる人に対して慈悲の心を施していくことだというわけです。施す物は形のあるものでも、形のないものでもよい。難しく考えるのではなくて、自分の出来る範囲内で人々に施していくということです。たとえそれが些細なことであっても、仏のご恩に報いることになるといえます。

        (平成26年7月)