(ミニ法話)  こころの泉

      107.われのない心

 人生が順調であったり、楽しい生活をしている知り合いを見ると、人は面白くない感情をもつようです。人が喜んでいれば共に喜べばいいのに、人が困っていれば喜び、人が喜んでいると喜ばないという心がはたらきます。人の家庭が幸福であれば、わざわざ波風を立てるようなことを言う人もいます。これらにはわれという意識がはたらいています。
 江戸時代に盤珪禅師という高僧がいました。そこへ出入りしていた盲目の按摩は、「盤珪さまは恐ろしい人じゃ。人が喜んでいるときは、本当に喜んでおられる。人が悲しんでいるとき、その人にかける言葉は本当に悲しんでおられた。他の人はそうじゃない。お気の毒に、ご愁傷さまと言ってはいるが、本心はああ自分の家でなくてよかったとか、わたしでなくてよかったと思っているように聞こえる。人の喜びを聞いてよかったと言っていても、腹の中ではたまたま運がよかったからそうなったんだと思っている。しかし、盤珪さまの声にはそういうものはなかった。恐ろしい人じゃ」と言っていたそうです。盤珪禅師にわれという心がはたらいていないので、人が喜んでいれば共に喜び、悲しんでいれば共に悲しむことができたものと思われます。
 『法華経』にある常不軽菩薩は毎日外へ出て、道で会うすべての人を拝むのが修行であったとされています。「わたしはあなたを軽んずることはしません。あなたは仏になられるお方です」と言って拝んでいました。拝まれた人は気持ちが悪くなって、怒って棒で叩いたり、石を投げたりしましたが、「わたしはあなたを軽んじてはいません。あなたは仏になられるお方です」と合掌礼拝したということです。これもわれという心がはたらいていない行為です。
 これら二つの例話の実践は容易なことではありませんが、われのない心のはたらきを示してくれている内容だと思います。

        (平成26年8月)