奈良歴史漫歩 No.015 1251回を数える二月堂お水取り |
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二月堂、左手前が閼伽井(あかい)屋 参籠宿所、籠松明に使う竹が左に立てかけてある。 |
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●鎌倉時代に飛躍的な発展をみる 今年のお水取りも3月1日から本行を迎えて毎日修行されている。14日まで本行は続く。 正倉院の御物は1250年の歳月を保存され、その変わらぬ姿に感嘆させられる。ましてや同じ歳月、同じ行事が大がかりに毎年執り行われてきたとなれば、これはもはや奇蹟ではないだろうか。 お水取りは正式には「二月堂修二会(しゅうにえ)」と称する。2月に修される法会という意味であるが、かつて旧暦の2月1日から二七日すなわち14日間行われてきた本行は、今は月遅れの3月に移行した。 この行事を創始したのは、東大寺初代別当良弁(ろうべん)の高弟で副別当も務めた実忠和尚(じっちゅうかしょう)とされる。 しかし、奈良時代から平安中期までの行事の具体的な内容を知る手がかりはなく、「練行衆日記」の記録が残るのは保安5年(1124年)からである。これによれば、行事の原形はすでに平安時代までにはできあがっていたとされる。 二月堂の建物を時間をさかのぼって復元することからも、行事の変遷を推測できる。 建物の中心には、本尊の十一面観音を安置する須弥壇と内陣がある。厳しい結界の張られた3間四方の聖域空間であり、創建時の二月堂はこの規模だったとされる。この周囲に外陣と礼堂が加わり、さらに局が北東南の3方向に付け足され、最後に西の局と舞台が増設された。一連の拡張が行われたのが鎌倉時代に入ってであり、二月堂の観音信仰への高まりと修二会行事の発展と完成を示すとされる。 |
お水取りのために閼伽井屋への階段を下りる、 |
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●1カ月にわたる壮大な行事 修二会の行事の流れを大まかにたどってみよう。 四識(ししき)と呼ばれる役職付は、和上(わじょう)・授戒をおこなう、大導師・修二会全体の主宰者、咒師(しゅし)・密教的修法を司る、堂司(どうつかさ)・行事の事務取り締まり、の4人である。 残りの7人は平衆(ひらしゅう)と呼ばれ、総衆(そうしゅ)之一、南衆(なんしゅ)之一、北衆(はくしゅ)之二、南衆之二、中灯(ちゅうどう)之一、権処世界(ごんしょせかい)、処世界とそれぞれ名前がある。 練行衆が行事の主役とすれば、彼らを舞台裏から支えるのが多くの童子で、これは俗人の担当である。 本行に入る前に別火(べっか)と呼ばれる前行がある。練行衆は、戒壇院に設けられた別火坊に入って、俗界の生活から離れる。本行に向けたさまざまな準備をすませながら、心身を清め整えていくのである。 本行は1日から7日までの上七日(じょうしちにち)と8日から14日までの下7日(げしちにち)とにわかれるが、基本は六時の行法と呼ばれる日に6回の行法が繰り返される。これは、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)と時間帯をわけての法要であるが、本尊十一面観音にあらゆる過ち・罪障を悔い改めることを祈願する。「南無観」で知られる声明や激しい五体投地は悔過作法のいわばクライマックスにあたる。 日により、走りの行法、達陀(だったん)、過去帳読み上げなどが加わる。 修二会は約1カ月にわたる非常に大がかりな行事であり、神仏混淆の要素や民俗的な慣習も含んで複雑多様な性格を持つと言われる。これが、修二会をかくも長く生き延びさせ、われわれを魅了する理由かも知れない。 次号では、修二会の謎に迫ってみたい。 |
練行衆の下堂を持ち受ける童子たち、手松明をかざす。 |
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●参考 川村知行・植田英介著「お水取り」保育社 「南都仏教52号」東大寺 大安隆「芭蕉大和路」和泉書院 | |||||||||||||
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