奈良歴史漫歩 No.015  1251回を数える二月堂お水取り 

 
 
●317年前のお水取り

「野ざらし紀行」の旅で、芭蕉が東大寺二月堂のお水取りの行法に参堂したのは貞享2年(1685年)2月であった。ここで芭蕉は次の句を得た。

    二月堂に籠もりて
  水とりや氷の僧の沓(くつ)の音

 お松明に先導され上堂した練行衆は、宵から深夜、さらに未明にかけて、お堂の奥深き内陣において真摯な行法にいそしむ。

 聴聞する者は、局(つぼね)と呼ばれる部屋につめて、その行法に目を凝らし耳を澄ますことになる。しかし、聖域の内陣は帳をおろし、2重の格子に阻まれて、中の様子はほとんど見ることができない。ただ、声明、鈴や法螺の音、五体投地の激しくぶつかる音などが閉じた空間に反響して満ちる。

 練行衆は、差懸(さしかけ)という歯のない下駄を堂内で履くが、歩けば、床板を打って甲高い音がこだまする。
 声明がやんでしばし静寂が続いた後、突然下駄の音が乱れ立つことがある。その響きが内陣をめぐった後、ふたたび静寂が訪れる。声明がまた流れ始める。

 まことに聴聞とはよく言ったもので、見ることよりも聞くことで、聴聞者は行法の流れに触れ、時として感情を揺さぶられる。

 さて、芭蕉の句であるが、「沓の音」とは言うまでもなく下駄の差懸が立てる音である。
声明でもなく法螺の音でもなく、木と木のぶつかる乾いた音、どちらかと言えば騒々しく無機的な音をもって、芭蕉は、お水とり行事を代表させた。

 「氷の僧」とは、深夜の底冷えのするお堂で行法にいそしむ練行衆の厳しい姿を象徴的に表現する。おそらく芭蕉も寒さに震えていたことだろう。

 ところで、「氷の僧」を「こもりの僧」と表記するケースが少なからずあるが、これは明らかに間違いだという。真蹟では「氷の僧」となっているが、後年、誤って「こもりの僧」と筆写されたのが今に至ったのだという。練行衆は「籠り僧」とも呼ばれるから、その影響かも知れないが、「こもりの僧」ではあまりにも平板な説明に過ぎなくなってしまうだろう。

 この句にも芭蕉らしいリアリズムが貫かれて、まったく古びないのはさすがだと思う。

 現在の二月堂は、寛文9年(1669年)に建立された。寛文7年に焼失したお堂は1年余りで、焼失前のお堂とまったく同じ姿に再建されたという。
 芭蕉が参堂したのはその16年後であるから、今のお堂の新築間もない頃となる。
 それから317年…。

 局の暗がりに身を潜めて行法を見守りながら、芭蕉もまた同じように身を潜め同じような場面を目撃していたことを思う。
 この想像自体が新たな感動を呼び覚ましてくれると言えば、言い過ぎだろうか。

二月堂、左手前が閼伽井(あかい)屋

参籠宿所、籠松明に使う竹が左に立てかけてある。

 ●鎌倉時代に飛躍的な発展をみる

 今年のお水取りも3月1日から本行を迎えて毎日修行されている。14日まで本行は続く。
 東大寺の大仏が開眼した752年から始まったとされるお水取りは、「不退転の行」として1年として欠かされることなく、今年で1251回を数える。

 正倉院の御物は1250年の歳月を保存され、その変わらぬ姿に感嘆させられる。ましてや同じ歳月、同じ行事が大がかりに毎年執り行われてきたとなれば、これはもはや奇蹟ではないだろうか。

 お水取りは正式には「二月堂修二会(しゅうにえ)」と称する。2月に修される法会という意味であるが、かつて旧暦の2月1日から二七日すなわち14日間行われてきた本行は、今は月遅れの3月に移行した。

 この行事を創始したのは、東大寺初代別当良弁(ろうべん)の高弟で副別当も務めた実忠和尚(じっちゅうかしょう)とされる。
 12世紀初期に編集された東大寺要録に、実忠が自ら記したという彼の業績目録「実忠二九箇条」(815年)が所載され、その中に「十一面悔過に奉仕する。天平勝宝4年から大同4年まで至る…。毎年2月1日から二七日間…」とあるのが根拠である。

 しかし、奈良時代から平安中期までの行事の具体的な内容を知る手がかりはなく、「練行衆日記」の記録が残るのは保安5年(1124年)からである。これによれば、行事の原形はすでに平安時代までにはできあがっていたとされる。

 二月堂の建物を時間をさかのぼって復元することからも、行事の変遷を推測できる。
 今ある建物は、修二会をとりおこなう舞台としてすべてがこの目的にかなうように普請されているが、この形に定まったのは文永元年(1264年)だという。

 建物の中心には、本尊の十一面観音を安置する須弥壇と内陣がある。厳しい結界の張られた3間四方の聖域空間であり、創建時の二月堂はこの規模だったとされる。この周囲に外陣と礼堂が加わり、さらに局が北東南の3方向に付け足され、最後に西の局と舞台が増設された。一連の拡張が行われたのが鎌倉時代に入ってであり、二月堂の観音信仰への高まりと修二会行事の発展と完成を示すとされる。

お水取りのために閼伽井屋への階段を下りる、
閼伽桶を担うのは童子たち。

  ●1カ月にわたる壮大な行事   

 修二会の行事の流れを大まかにたどってみよう。
 前年の12月16日、開山堂で催される良弁上人忌の場において、練行衆交名(きょうみょう)発表がある。練行衆に選ばれるのは全員で11人。

 四識(ししき)と呼ばれる役職付は、和上(わじょう)・授戒をおこなう、大導師・修二会全体の主宰者、咒師(しゅし)・密教的修法を司る、堂司(どうつかさ)・行事の事務取り締まり、の4人である。

 残りの7人は平衆(ひらしゅう)と呼ばれ、総衆(そうしゅ)之一、南衆(なんしゅ)之一、北衆(はくしゅ)之二、南衆之二、中灯(ちゅうどう)之一、権処世界(ごんしょせかい)、処世界とそれぞれ名前がある。

 練行衆が行事の主役とすれば、彼らを舞台裏から支えるのが多くの童子で、これは俗人の担当である。

 本行に入る前に別火(べっか)と呼ばれる前行がある。練行衆は、戒壇院に設けられた別火坊に入って、俗界の生活から離れる。本行に向けたさまざまな準備をすませながら、心身を清め整えていくのである。
 2月20日から試(ころ)別火が始まり、25日からは別火坊から出ることも許されない惣(そう)別火となる。そしてすべての準備を整えて、2月末日の参籠宿所入りとなる。

 本行は1日から7日までの上七日(じょうしちにち)と8日から14日までの下7日(げしちにち)とにわかれるが、基本は六時の行法と呼ばれる日に6回の行法が繰り返される。これは、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)と時間帯をわけての法要であるが、本尊十一面観音にあらゆる過ち・罪障を悔い改めることを祈願する。「南無観」で知られる声明や激しい五体投地は悔過作法のいわばクライマックスにあたる。

 日により、走りの行法、達陀(だったん)、過去帳読み上げなどが加わる。
 中でも、修二会の代名詞となった若狭井でのお水取りが秘修されるのが、12日の後夜の時(13日2時頃)である。この日は、初夜の上堂で練行衆の足下を照らす松明が特別大きな籠松明となり、火花を散らして舞台で乱舞する炎を見ようとする人でお堂の周囲は埋まる。

 修二会は約1カ月にわたる非常に大がかりな行事であり、神仏混淆の要素や民俗的な慣習も含んで複雑多様な性格を持つと言われる。これが、修二会をかくも長く生き延びさせ、われわれを魅了する理由かも知れない。

 次号では、修二会の謎に迫ってみたい。

練行衆の下堂を持ち受ける童子たち、手松明をかざす。

●参考 川村知行・植田英介著「お水取り」保育社 「南都仏教52号」東大寺 大安隆「芭蕉大和路」和泉書院
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