●勧請された十一面観音
松明のショーアップ効果は二月堂の舞台を抜きにしては考えられない。まるでお松明を行うために舞台をこしらえたように思えるが、もちろん建物が先に存在したのである。
二月堂の本尊は十一面観音菩薩であり、観音菩薩は南海の補陀楽(ふだらく)浄土に住むとされる。補陀楽浄土は切り立った岩山であるから、観音菩薩をまつるお堂も平地ではなく、岩山斜面に建てることが多くなる。それで、お堂も前面に舞台を設ける懸崖造りと呼ばれる建物となる。二月堂を始め、清水寺や長谷寺の舞台も同じ例である。
前回にも書いたように、二月堂本尊は内陣に安置される。絶対秘仏であり、練行衆といえども拝することはできない。不思議なことに、本尊は2体あってそれぞれに大観音、小観音と呼ばれる。大観音は、内陣中央の須弥壇上に立つ。小観音は小型の厨子に収まって普段は大観音の前に置かれる。
2月21日、小観音の厨子は礼堂に出されて清拭したあと、須弥壇の東側、大観音の背後に運び置かれる。3月1日から7日までの上7日の本行では、大観音が本尊となる。7日の日没の行のあと厨子は再び礼堂に運び出される。後夜のあと礼堂から外陣を回り内陣へ後入して、大観音の前に据えられる。14日までの下7日の行で本尊になるのは、小観音である。つまり本行の途中で本尊が交代する。そして、7日の「小観音出御・後入」は上7日のクライマックスでもある。
このきわめて興味をひく小観音は、お水取り行事の縁起に関わる。
実忠和尚がお水取りを創始したのは、笠置山の龍穴に入り込んで都率天に至ったことにさかのぼる。和尚はそこで天人が集まり十一面悔過の行法を修めているのを見た。和尚はそれをぜひ人間界にも移したいと願ったが、天上界の1昼夜は人間界の400年に相当して、行法の内容は難しく、本尊には生身の観音を迎えなければならないという。
しかし、実忠は天界から戻ると行法を起こした。千遍の行道は走って時間を短縮したが、これが「走りの行法」の由来でもある。難波津におもむき補陀楽山に向かって観音の影向(ようごう)を勧請した。100日ばかりして、生身の十一面観音が波間に現れたという。
この時の補陀楽山から迎えた十一面観音が、小観音なのである。厨子には波の模様も刻まれていて、「小観音出御・後入」の行法は縁起の観音勧請を再現しているといわれる。
二月堂の舞台に立ち前方に開ける景色を眺める。私がもっとも好きな奈良のパノラマシーンである。大仏殿の大屋根と金色の鴟尾、市街の向こうに広がる平城宮跡と平城山の丘陵、遠景には生駒山の横たわる山なみ。日没となれば生駒山に日が沈み、西方浄土という言葉もふと浮かぶ。
生駒山を越えれば難波津がある。その海の彼方に観音様のおわす補陀楽浄土があると人は信じた。舞台からはもちろん海は見えない。しかし、観音様がやってこられたのはまさしくこの方角からである。西の空を真っ赤に染めて差す夕日に観音の化身を見ることがあったとしても何ら不思議はないように思える。感傷かも知れないが、二月堂の舞台はこんな思いを誘う場所なのである。
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