奈良歴史漫歩 No.052     宇奈太理の森     橋川紀夫

 平城宮には東側に東西約250m、南北約750mの張り出しがあり、東院と呼ばれる。東院南東の隅には、奈良時代を通して存在した庭園が復元されている。庭園の北西に隣接して常緑の茂みがあるが、これは鎮守の森であり、宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかむすび)神社が鎮座する。庭園からだと、森はちょっとした借景になって、洲浜敷きの池や朱塗りの建物を引き立てる。

    ●東大寺文書の今木荘「菟足社」

 祭神は、大国主神・高皇産霊尊・思兼命である。本殿は室町中期以前の建築と見られる三間社流造で、重文に指定される。普段はフェンス越しにだが、重厚にして堂々たる本殿を脇から見ることもできる。

 『延喜式』神名帳(927年)の大和国添上郡の条に記載された宇奈太理坐高御魂神社は、月次・相嘗・新嘗と官幣に預かった社格の高い大社であり、当社として比定されてきた。

 しかし、これに対して、『延喜式』の宇奈太理社は当社ではなく別に存在したという有力な異説がある。

 東大寺文書の寛弘9年(1012)の日付を持つ「今木荘坪付」に、「菟足(うなたり)社」が登場する。荘園の今木荘の四至を示したなかに、「北限は菟足社の北を東西に行く堤」という語句がある。

 今木荘は奈良市古市町のあたりに所在して、平城宮跡からは東南に約5kmの距離である。平安時代にはここに菟足社があったことは確かだろう。現在、この地には穴栗四社大明神が鎮座する。伊栗社・穴栗社・青榊社・辛榊社の四社が4棟の春日造を1棟につらねているが、伊栗社はまた菟足社とされる。

 菟足社の名前が始めて国史に登場するのは、持統紀6年(692)である。新羅の調を大夫を遣わして奉った神社に、伊勢・住吉・紀伊・大倭とともに菟名足が挙がる。

 正倉院文書の天平2年(730)の「大和国正税帳」には、「菟足神戸稲伍拾捌束参把」とあり、菟足社が財源として添上郡に封戸を持っていたことがわかる。また、大同元年(806)の『新抄格勅符抄』神封部に、「菟足神十三戸、大和八戸、尾張五戸」とあり、これも菟足社の封戸の記録である。

ウナタリの森を背景にした東院庭園。東院庭園は奈良時代の前期と後期では様相を異にする。復元された庭園は後期をモデルにする。洲浜敷きの汀が複雑に屈曲した池が広がる。
 菟足社は伊勢や住吉と並んで5社に入るような名社であり、奈良時代には神戸も与えられていた。しかし、神戸を支給するというのは、これによって神社の財政基盤を整えることであるから、平城宮内には祀られていなかったことの証明になるという。神祇官が祀ったはずだから、神祇官の予算で賄われていたはず、したがって独自の神戸はなかったということだろうか。

 以上の説によれば、式内社の宇奈太理坐高御魂神社は古市の今木荘にあった菟足社のことであり、東院の宇奈太理坐高御魂神社は廃都以後に創建され、祭神が共通の高皇産霊尊ということで、社勢の衰えた本来の菟足社に変わっていつしか式内社を名乗るようになったということになる。

    ●『三代実録』の法華寺薦枕高御産栖日神

 東院の宇奈太理社=式内社説はこのようなわけで形勢不利なのであるが、援軍となる資料が六国史にある。

 『三代実録』の貞観元年(859)に「法華寺従三位薦枕高御産栖日(こもまくらたかみむすび)神に正三位を授く」という記事がある。東院の東に法華寺があるので、その周辺も法華寺という地名で呼ばれたようだ。法華寺周辺で高御産栖日神を祀る神社は現在の宇奈太理坐高御魂神社しかなく、この時に正三位を授けられたのは当社であろう。

 正三位という高い神格は式内大社に相当するらしい。宇奈太理坐高御魂神社が式内大社であるのと符合し、位階授与が『延喜式』編纂以前の措置であることから、従来の説もまだ成立の余地があろう。ただ、「法華寺薦枕高御産栖日神」とあって「菟足」や「宇奈太理」ではないことで、奈良時代の菟足社が古市にあった可能性が高くなる。

宇奈太理坐高御魂神社の本殿、室町時代初期の三間社流造、重文指定。

    ●東院跡の高皇産霊尊と不比等

 東院跡にある宇奈太理社が奈良時代の菟足社とは異なる可能性は高いが、同社が関心を集めるのは東院に存在するということと共に、祭神が高皇産霊尊であることが大きい。

 『日本書紀』神代巻本文では高皇産霊尊は高天原の最高神であり、葦原中国に天下りするニニギノミコトの母方の祖にあたる。父方の祖が天照大神であるが、天下りを命令するのは高皇産霊尊である。天下りと国譲りのエピソードは天孫である天皇の国土統治を正当化する根拠となるが、その立役者が高皇産霊尊なのである。

 このような神を祀る神社が東院に存在することが、憶測を誘う。上山春平氏は、律令の作成、平城京の造営、日本書紀の編纂といった8世紀初頭の国家事業を主導した藤原不比等を高皇産霊尊に投影する。

 東院の東に宮に寄り添うように不比等邸があった。東院は、聖武天皇が首皇子と呼ばれた時期に宮殿を構えていた可能性があるが、首皇子の祖父として最大の後見人であった不比等は、目の届く範囲に我が孫を置いて手厚く保護していたのだろうか。

 ニニギノミコトに対する高皇産霊尊と首皇子に対する不比等の立場はまったく一致する。不比等のいわば分身たる高皇産霊尊が東院の首皇子のかたわらに守護神のように祀られていた。こんな憶測も、宇奈太理の森を前にすれば、よりリアルなイメージを持ち始めるようだ。

 最新の発掘調査の成果によれば、東院は当初の八町四方だった宮プランを変更して後から加えられたと推測できる。どのような事情によってプランは変更されたのか。宇奈太理社の存在が果たしてこの謎を解く手がかりを提供するかどうか。興味は尽きない。


阿弥陀浄土院跡から見た東院大垣、隅楼、ウナタリの森。このあたりには不比等邸があった。


宇奈太理坐高御魂神社所在地マップ
●参考 上山春平『埋もれた巨像』 水林彪「平城宮読解」 舘野和巳「宇奈太理神社の位置」 井上和人「平城宮東院地区の造営年代」
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