奈良歴史漫歩 No.046    高さ70mもあった大安寺西塔

 奈良の大安寺は、今は、ガン封じに効験があるという笹酒祭で有名である。近年は、南門や各堂舎の建立が進み、境内に参拝者の姿も多いが、こぢんまりとした「田舎の寺」という印象が強い。寺がかつては南大寺と別称される国家の寺院として破格の待遇を受け、七堂伽藍の壮麗な景観を平城京に誇示した痕跡はどこにもない。

    
●平城京左京六条四坊の巨大な伽藍

 大安寺の縁起は、7世紀初期の聖徳太子建立の熊凝精舎にまでさかのぼる。以後、百済大寺、高市大寺、大官大寺と名前を変え、場所を変えて、歴代の天皇が建設に力を注いだことが、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。

 また考古学的にも、百済大寺とされる吉備池廃寺や大官大寺の建物跡が同時代では抜きん出たスケールであり、特別視された寺院であることを裏づける。

 平城遷都により大官大寺も移り、大安寺と名前を変える。大安寺の建設にあたっては、唐からの帰国僧道慈の活躍があったらしい。大仏開眼の導師となった天竺僧菩提遷那が居住したのもこの寺である。他にも、唐僧道せん、ベトナム僧仏哲、新羅僧審祥など歴史に残る仕事をなした異国の僧侶が住居して、大安寺は当時のもっとも国際色豊かな文化センターのような寺であったようだ。

 南都七大寺と称せられる古代に創建された奈良の大寺院の中で、一番衰退したのが大安寺だと言われる。江戸時代の初期には、小さなお堂が一つあるのみで、仏像も庭に打ち捨てられていたことが記録(『和州旧跡幽考』)にある。

 大安寺旧境内の発掘調査と文献によって、古代の伽藍配置はおおよそ判明している。左京六条大路をはさんで六条四坊と七条四坊の十五坪(町)を占地する。東西約400m、南北約650mにもわたる広大な範囲である。

 中心伽藍は、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、その延長線上に食堂もあったらしい。これらの堂は回廊で結ばれ、三面を大中小の僧坊が取り巻く。僧坊は他の寺院では講堂の周囲に配置されるが、大安寺は東西の僧坊が中門のある位置まで伸びているのが特徴である。六条大路の南に四坪分を占める塔院が設けられ、七重の東西塔があった。

 


西塔心礎、タガネの傷跡が残る。大安寺周辺は庭石の出土地として知られ、ほとんどが持ち去られた。







基壇東側の階段跡。延石、地覆石が出土した。
    ●1辺12mの七重塔初層

 この壮大な伽藍を偲ばせる唯一の遺跡が、東西塔の基壇である。現在、国の史跡になっている塔跡であるが、西塔跡は巨大な心礎が残り、今後整備される予定である。その準備として、奈良市教育委員会は2000年から発掘調査を行ってきた。2005年12月11日には3回目の現地説明会があり、西塔跡の全体像が判明した。

 版築で構築された基壇は1辺約21m(70尺)、高さは推定1.8m(6尺)である。外装は、凝灰岩切石の延石、地覆石、羽目石が出土して、最上級の壇上積みであることがわかる。東西南北に階段が付き、階段幅は4.9〜5.1mでそれぞれ約1.5m張り出す。

 遺存する心礎は元の位置を動いていない。その周囲に4×4列の礎石抜き取り跡があり、根石が散在する。塔の初層は3間四方であり、柱間距離は中央が14尺、両脇が13尺の合計40尺、約12mとなる。

 これを他の塔と比較すると、現存木造塔では一番高い東寺五重塔が9.47m(高さ54.8m)、2番目の興福寺が8.84m(高さ50.8m)で、大安寺が上回る。焼失した東大寺七重東塔は16.36m、高さは96mあったと言われる。

 塔の平面規模と高さが一応の比例関係にあるとすると、大安寺西塔の高さは70m程度になり、七重であったという記録を裏付ける。百済大寺と大官大寺の塔は九重とされるが、大官大寺の発掘調査から初層15mと推定されており、スケールを追求した伝統が大安寺の塔にも引き継がれていることがわかる。

 塔の規模は出土した風鐸からもうかがえる。2種類の金銅の風鐸が出土しているが、一つは相輪を飾った風鐸で全長30cm、ほば完全な形で残る。もう一つは、軒の四方に吊った風鐸で、破片から復元すると全長55cmになり、全国最大であるという。


崩落した瓦の堆積。最初の堆積層は整地され、その上に2度目の被災による焼けた瓦や壁土が堆積する。
    ●2度の被災をへて焼失

 基壇の周囲には塔から崩落した瓦が多量に堆積していた。コンテナ箱で8000箱にのぼるという瓦の堆積は大きく2層にわかれ、これは被災が2回あったことを意味する。最初の被災は火災以外の原因があったようで、崩落した瓦を敷きつめて整地してあった。この時は相輪も崩れている。2度目の被災は明らかに火災が原因で、焼けた壁土や炭が混ざる。

 年譜を見ると、天暦3年(949)に雷火により西塔が焼失したという。その前の貞観18年(876)には、塔が雷雨により振動した。西塔の2度の被災は、このふたつの記事に対応するのではないかと一応考えられるのだが、被災の記事は他にもあって、考古学的な事実からはまだ決定できないと言うことだ。

 出土瓦のタイプは上下の堆積層ともに変わらず、軒丸瓦は6138Cbと7251A 型式、軒平瓦は6712Aと6712B型式とそれぞれふたつの型で占められる。7251A 型式は平安時代初期の瓦であり、全体の半ば以上を占めるので、西塔の建立時期もその時期まで下る可能性が高い。

 

相輪に吊られた風鐸、ほば完全な形で残って、塗金が今も輝く。軒の風鐸はこれよりもさらに大きい。
 『続日本紀』は天平神護2年(766)に大安寺東塔に落雷したことを記録するから、東塔の完成がその前であることは確認できるが、西塔の完成は文献からはわからなかった。建立時期推定の手がかりが得られたことは、調査の大きな成果だろう。

 延暦元年(782)と大同元年(806)に光仁天皇の法事、延暦9年(790)には桓武天皇生母の高野新笠の法事が大安寺で開かれている。皇統が天武系から天智系に交代した直後の時期であり、天武系天皇色が濃厚な奈良の他の寺院を忌避して、大安寺が選ばれたのだろうか。西塔の建立もあるいはそのような政治情勢と何らかの関連があるのだろうか。

 ところで、大安寺の笹酒祭の由緒は光仁天皇の謂われにさかのぼる。天皇はお酒が大好きであったと言うが、これは政争渦巻く貴族社会をお酒で韜晦して生き延びるという面もあった。62歳で天皇になり長寿を全うした光仁天皇の健康と活力の秘訣はお酒にあると見て、それにあやかろうという趣旨であるらしい。

 1月23日の笹酒祭は光仁会というのが正式な名称であるが、この日は天皇の命日であり、延暦元年の一周忌もこの日に行われたからである。もっとも、青竹の筒に入れて暖めたお酒を、妙齢の着物姿の女性から竹の杯についでもらい飲めば、そんな謂われなど抜きにしても元気になること請け合いだろう。



出土した軒丸瓦、左が6138Cb、右が7251A 型式。コンテナ8000箱の瓦が出土した。

大安寺所在地マップ
大安寺ホームページ

●奈良歴史漫歩No011吉備池廃寺は百済大寺か
●参考 太田博太郎「南都七大寺の歴史と年表」岩波書店 「大安寺西塔跡の調査現地説明会資料」奈良市教育委員会 他
ホーム 総目次 主題別索引 時代別索引 地域別索引 マガジン登録
リンク メール 製本工房 和本工房 つばいちの椿山
Copyright(c) ブックハウス 2006 Tel/Fax 0742-45-2046