奈良歴史漫歩 No.049    七体七仏薬師の壮観、新薬師寺       橋川紀夫 
 
 新薬師寺があるあたりは高畑と言われ、古き奈良市街の面影を残す地区にあっても、山の手の雰囲気が漂う。春日大社の社家町が街道に沿って並ぶ一画に、志賀直哉が昭和の初期に住んだ木造の家が白い土塀に囲まれて建つ。崩れた土塀や通りに面した格子も懐かしい。しかし、ここでも町は新陳代謝が進み、新建材の今風の家に取って代わられつつあるのは、奈良のどこでも見られる現実である。

    
●九間の仏殿に七体の薬師如来

 天平の十二神将で名高い新薬師寺は、現本堂を中心にした境内は狭いが、創建の奈良時代には高畑の一帯を占地して七堂伽藍がそびえていた。『東大寺要録』巻一・本願章に収録された『延暦僧録』逸文には「仁聖皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」と、光明皇后が創建した香薬寺=新薬師寺の伽藍を記述する。

 正面九間の金堂に七体の薬師如来(七仏浄土七躯)が安置され、東西左右に仏塔が建つ。梵鐘が備わり、僧房には百人を越す僧侶が住まい、寺の菜園もある。

 『正倉院文書』の「造香山薬師寺所」関係の文書などからも、造仏の様子が伝わる。薬師如来は周丈六(高六尺三寸)の座像で、塑像であった可能性が高い。七体の如来にそれぞれ脇侍の日光・月光菩薩が付き、十二神将も加わる。総計三十三体の壮大なスケールである。

 また、造香山薬師寺所は造東大寺司の下部機関であったことが文書からわかり、新薬師寺は創建当初から東大寺と密接な関係を持ったのである。

 『東大寺山堺四至図』には、「新薬師寺堂」と記して、正面七間の単層の仏堂を描く。『四至図』の中の建物は写実ではなく、一種の記号であるとはいえ、大仏殿も含めて他の仏堂が三間であるのに、新薬師寺堂が七間であるのには興味がわく。

 七体の七仏薬師像が当時の人々にとってもよほど注目をひくものであったのだろうか。



高畑町清水通り、瓦を塗りこめた土塀が美しい。このあたりは春日大社の社家が集まる。柳生街道の入り口にも当たる。
    ●聖武天皇の病平癒を祈願

 新薬師寺の創建は、天平17年9月20日の詔、聖武天皇の病平癒を願って京師および諸国に七仏薬師像の造立を命じたことに端を発する。

 745年のこの5月、5年に及んだ遷都騒動に終止符を打ち、聖武は近江の紫香楽宮から平城京へ還都する。8月には、中断していた大仏造立が東大寺で再開され、その後、難波宮へ行幸する。9月に天皇は病に倒れて重体に陥る。難波宮へ孫王が集められ、駅鈴や御璽印も運び込まれる。

 殺生の禁止、大赦、賑恤(しんじゅつ)、諸社への奉幣、得度、書写、悔過、造仏もその一つとしてあらゆる手段が講じられる。その甲斐あってか、聖武の病は快復した。しかし、これ以後、聖武は病がちとなり、大仏の完成を急ぐ朝廷にとって、聖武の健康問題は重大な関心事になったにちがいない。

 天平勝宝3年(751)10月に、聖武の病平癒を祈って、新薬師寺に7日間、49人の賢僧を屈請して続命法を修めさせた。この頃には、新薬師寺の主要な仏堂と仏像は完成していたと推測できる。

 造仏工事や伽藍建設はこの後も継続し、全体の完成を見たのが宝亀3年(772)、東大寺から落慶供養に必要な資材を借りた記録のある年である。

 宝亀11年(780)1月、落雷のため西塔が焼失した。『東大寺要録』や『新薬師寺縁起』には金堂も含む全山がこの年に焼けたとされるが、これは間違いのようだ。

 平安時代においても新薬師寺は国史にしばしば登場して、鎮護国家の役割を果たしている。南都七大寺に次ぐ待遇を朝廷から受けていたようだ。

 応和2年(962)8月、大風雨が畿内を襲い、新薬師寺の七仏薬師堂が転倒、全山壊滅的な被災を被った。ちなみに、この時は東大寺の南大門も倒れた。復興の試みもあったが、結局旧状を復することはなかった。

新薬師寺南門、鎌倉時代建立の四脚門、重文指定。
    ●現本堂=壇院説

 現在の本堂はもちろん創建時の本堂ではない。『東大寺山堺四至図』で見ると、七仏薬師堂は現在の本堂の西側に位置している。現在の本堂は天平時代の特徴を示すとされ、国宝に指定されるが、元は何に使われていたのか不明である。

 入母屋造りの本瓦葺きの屋根は緩やかに傾斜して軽快な印象を与える。組み物は大斗肘木。桁行7間、梁行5間で、柱間は桁梁ともに10尺であるが、桁行中央だけ16尺と広い。正面中央3間と後面中央1間、両側面中央1間に扉が入る。窓はない。内部は天井を張らない化粧屋根裏で垂木がそのまま見える。母屋は5間×3間で、そのスペースいっぱいに円形の土築須弥壇を築く。

 鎌倉時代に改修されて、本堂の前に礼堂が建ち、屋根裏に化粧天井が張られたが、明治30年(1997)の修理で、創建当初の姿に戻った。この年には古社保存法が制定され、本堂も法隆寺金堂などとともに特別保護建造物として指定を受けている。この時の修理を指導したのが、奈良県技師であった関野貞である。

 本堂が元伽藍の東に建つということから食堂であったという説もあるが、それも確実性には欠ける。建物の特徴として、窓がなく閉鎖的であること、桁行中央1間が各段に広いこと、梁行母屋が3間、などが挙げられる。

 これらの事実から、円形須弥壇は当初から築かれて、本堂もそのためのものではないかという説が浮上している。

 西川新次氏は、天平宝字6年(762)の『正倉院文書』の「造香山薬師寺所」関係条にある「壇所」「壇院」という言葉に注目して、当寺において密教的修法である「壇法」が行われていた可能性を言及した。

 浄処を清めて壇を築き、その上に牛の糞や香を塗り、薬師一尊を祀る法が『陀羅尼集経』に説かれる。この壇法を行った場所が壇院であり、本堂は壇院の中心的な建物ではないかという。

新薬師寺本堂。奈良時代建立の国宝、正面7間、屋根の傾斜はゆるやかで、軽快な印象。
    ●薬師如来座像と十二神将の謎

 本尊の薬師如来座像は周丈六(高6尺3寸)の榧の木からなる一木造り、弘仁様式を代表する仏像としてつとに名高い。ボリューム感あふれる体躯、異相ともいうべき目鼻立ち、特に見開いた両目に強い印象がある。如来形仏像にイメージする理想、美、高貴などとは別種の生々しい存在感には圧倒される。

 昭和50年(1975)の本尊の修理の際に、像内に納められた法華経八巻が確認された。現存最古の白点を施して、奈良時代末から平安時代初期の制作と見られる。国語学史上でも貴重な遺品であり、国宝に指定される。

 薬師如来座像が本堂創建以来の本尊である可能性は非常に高いが、建物と本尊の推定制作年代のズレ、『文書』が記録する天平宝字年間の壇所との関係など疑問も多い。

 本尊を取り巻いて円形須弥壇に並ぶ十二神将も謎に満ちる。

 十二神将は薬師如来を信仰するものを擁護する12人の薬叉(やくしゃ)大将をいう。本尊が木造であるのに対し、神将が塑像のため本来別々に制作されたと見られてきた。『縁起』には、近くの白毫寺村にあった岩淵寺から移したとされる。岩淵寺は文献上でも鎌倉時代末までの存続が確認され、7世紀後半の瓦が出土した寺跡に比定される。

 大正年間の修理で、因達羅像の框座裏の桟木に残る墨書が発見された。それには「天平」や「為七世父母六親族神王御座造……」という文字があり、造立時期や目的を知る手がかりになる。造立目的が私的な理由であることを推測でき、岩淵寺からの移座説を補強する。

 薬師如来座像は本来一尊で祀られたのか?
 後世に十二神将が加えられ、円形須弥壇はその時築かれたのか?
 何故、円形須弥壇なのか?壇法との関係は?

 十二神将は、昭和の補作である正面右から3番目の宮毘羅像(寺伝では波夷羅像)を除き、国宝である。

    ●天平の雰囲気こわす境内

 新薬師寺には、3度盗難にあい行方不明の白鳳の仏像「香薬師如来像」、奇怪な伝記をもつ裸形の地蔵「おたま地蔵」など話題も多い。

 しかし、今の新薬師寺はこんな興味も吹っ飛ばす環境にある。

 久しぶりに訪ねた本堂では、解説のビデオが大音声で放映されていた。本尊手前の供物棚には紅白の祝儀袋が張り出され、十二神将すべての前に賽銭箱が設けられていたのにも興が削がれた。極めつけは、扉を外して嵌め込むステンドグラスである。「東方瑠璃光の光をお浴びください」とあって、マジメなのかふざけているのかよくわからない。

 本堂内をわざと暗くしてライトを有料で貸し出し不評をこうむった寺は、全然懲りていないようである。

 天平の本堂で天平の仏像を拝観するという期待が裏目にでて、この居心地の悪さに早々退散したのであった。

奈良市立写真美術館、入江泰吉の大和路の写真が常設展示される。新薬師寺の西隣。



新薬師寺所在地マップ

航空写真
●参考 稲木吉一「新薬師寺」(保育社『日本の古寺美術16』) 西川新次「新薬師寺」(岩波書店『大和古寺大観』) 
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