奈良歴史漫歩 No.050     都祁の氷室     橋川紀夫 

 冬にできた天然の氷を保存して夏に使用することは、機械によって年中、氷が作れるようになるまでは、広く行われていたようだ。もちろん手間がかかることなので、贅沢品ではあっただろうが、日本全国各地に氷を保存した施設である氷室跡やその伝承が残る。最近では、村おこしや学校の課外活動に氷室を復元する試みも活発である。効率性や利便性とは対極にある氷室は、それ故に私たちのロマンを誘ってやまないのだろうか。

    
●市で売買された氷室の氷

 氷室の歴史は古代にさかのぼる。
 『日本書紀』仁徳62年条に次のような話が載る。

 額田大中彦皇子が闘鶏(つげ)に猟をしたとき、野中に庵のようなものを見かけた。地元の豪族である闘鶏稲置大山主を呼んで問うと、氷室であると答えた。地面を1丈掘ってその上を草で覆い、穴には茅を敷いて氷を取り置いておく。夏まで氷は溶けず、水酒に漬けるという説明だった。皇子は氷を持ち帰り宮中に献上、天皇の歓ぶところとなり、これ以後、毎年、冬に蓄えた氷を春から用いるようになった。

 『日本書紀』が編纂されたのは養老4年(720)、この時代に大和国山辺郡都祁地方に氷室が存在したことは、長屋王邸宅跡から出土した和銅5年(712)の日付が入った氷室木簡によって確かめられる。『書紀』の記事は、事実を語ったものというよりも、都祁の氷室についての当時の伝承を記録したと言えるだろう。都祁の氷室が応神天皇皇子の事績と結びつけられたことで、朝廷によってどれだけ重視されていたかが分かる。


福住氷室神社、祭神は大鷦鷯(おおささぎ)命、額田大中彦命、闘鶏稲置大山主、鬱蒼たる社叢に囲まれた境内は神寂びた雰囲気が漂う。
 氷が朝廷でどのように用いられていたかは、当時の『律令』の条文によってうかがえる。喪葬令第14条には、親王、三位以上の者が6、7月に薨すると、氷を支給するとの規定がある。腐敗防止に役立てたのだろうか。また、職員令第53条からは、主水司(もひとりのつかさ)が氷室のことを担当していたことが分かる。主水司は宮内省管轄の部署で飲料水に関することを扱い、氷は当然食用にあてられただろう。

 長屋王の氷室木簡からは、長屋王が朝廷とは別に氷室を所有し氷を調達していたことが分かって驚かされる。長屋王という最高権力者のみに許された特権なのか。

 奈良時代の氷室の氷が身分の極高い者のみが享受していたかというと、必ずしもそうではないようだ。氷は平城京東西市においても販売されていた。『正倉院文書』には、東大寺写経所が市で氷を買い入れたという文書が残る。また、東市推定地からは、氷を運び込んだと見られる木簡が出土しており、思いのほか氷が出回っていた可能性がある。

 長屋王木簡からは、都祁にあった氷室の構造の一端が分かって興味深い。
 2カ所あった氷室は深さが各1丈(3m)、周りが各6丈、氷の厚さは2寸半から3寸、断熱材に用いる草束が各500束で、草を刈るのに20人が働き、その費用が布3常、米4斗塩1升であった。氷室を覆う小屋に用いたのか、カスガイも調達している。

氷室の復元、地元の福住公民館が企画して、2月に人工の氷を収納し、7月に取り出す。3分の1ほど溶け残る。氷室は萱葺きで、中に1.8m四方の穴を掘り、氷を詰める。回りは茅で覆う。
    ●数多く残る氷室状大型穴

 都祁の氷室は、天理市福住町の氷室神社周辺に散在する大型穴が比定される。よく知られているのは、氷室神社の東南約400mにある室山氷室伝承穴である。丘陵尾根の稜線にそって土坑が並び、一つは上面直径8.4〜10.6m、深さ2.67m、もうひとつは直径9.4〜7.5m、深さ2.2mある。どちらも擂り鉢状の形である。

 最近、周辺に散在する多数の氷室状土坑が報告された。川村和正氏のレポートによると、合計22個確認できるという。これらは丘陵の尾根や中腹に立地し、水はけがよいという条件にかなう。氷から溶けた水や雨水が、氷の保存にとって大敵なのである。氷室状土坑は3個単位のグループになってかたまっているケースが多いことも特徴である。

 氷を採った池についてはまったく分かっていない。明治時代の資料では、水田を転用して氷池にしたということがあったらしい。氷室出土場所がいずれも耕作地に近い丘陵であるというのもヒントになるかもしれない。

 福住町は海抜480m前後の高地にあり、奈良盆地よりも400m高い。平均気温も盆地よりは3度低くくなる。この気象条件が、ここに氷室が置かれた理由だろう。

 福住町の所在する大和高原は東山中とも称されて、国中(くんなか)の奈良盆地の東に広大な面積を占める。氷室状土坑が発見されたのは福住町ばかりではない。東山中の各所に氷室が設けられたと思われる。

 旧都祁村(現奈良市)の藺生(いう)の葛神社周辺で6カ所の跡が見つかっている。

 同じく旧都祁村の吐山(はやま)にも、平成3年(1991)に橿原考古学研究所が調査報告した氷室がある。高さ約15mの丘陵の尾根にあり、直径5.3m、深さ3mの擂り鉢状の穴で、出土土器から推定して8世紀末から9世紀前半に掘られたらしい。注目されるのは、穴のすぐ近く南西と南東の2カ所に直径50cm、深さ30cmの柱穴があったことだ。覆い屋の柱跡だろうか。

 都祁からは南に離れた宇陀の旧菟田野町(現宇陀市)松井の天神社の裏山からは、合計13個の氷室状土坑が発見された。

 大和高原の気象と広大な土地を生かして造られた多くの氷室が、盆地の都の住人に多量の氷を供給したのだろう。

福住町室山の氷室状土抗の測量図。井上薫「都祁の氷池と氷室」より転載。

    ●都祁氷室の盛衰

 福住は大和高原の北に位置して平城京からは比較的近い。平城遷都以後は、福住が都の氷需要をまかなった一大基地になったのは間違いない。

 しかし、延暦3年(784)の長岡遷都以後は、都祁の氷室が地理的な条件から振るわなくなったのは想像に難くない。

 『延喜式』は山城、大和、河内、近江、丹波に設置した氷室の数を挙げる。合計21室数える中で、大和は2室半、山城は10室大半とある。1駄を運ぶに要する人夫が、山城は1人から2人であるのに対し、大和は6人もあてられる。京に到着するまでのロスも多かっただろう。それでも都祁の氷室が平安時代も存続したのは、『日本書紀』にも書きとどめられた氷室発祥の由緒と実績によるのだろうか。


福住氷室神社マップ

●参考 井上薫「都祁の氷池と氷室」 川村和正「天理市福住町の氷室状大型穴の踏査レポート」「宇陀の氷室状大型穴について」
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