奈良歴史漫歩 No.071      大御輪寺の滅亡      橋川紀夫

    大御輪寺の離散した仏像

         
 『古寺巡礼』の中で和辻哲郎は、桜井市の聖林寺の木心乾漆十一面観音菩薩立像を天平期仏像の写実と理想化の結晶として絶賛した。端正なプロポーションを備えて、気高くも美しい菩薩像の前に立つと、羨望とも憧憬ともつかね感情に襲われる。

 十一面観音像はもとは大神神社神宮寺の旧大御輪寺(だいごりんじ、おおみわてら)の本尊であった。秘仏として人々の目に触れられること少なき歳月を過ごした後、明治維新の廃仏毀釈により聖林寺へ移された。『古寺巡礼』では、道端に捨てられていたのを寺の住職が拾ってきたように書かれたが、実際は両者の相談の上で預かったことが、証拠の「預証文」もあって明白である。他にも右脇侍の木造地蔵菩薩立像(平安初期)が移され、これは現在、法隆寺に納まり、十一面観音像同様に国宝に指定される。

 大御輪寺の仏像は他にもある。三輪の玄賓庵に祀られる木造不動明王坐像(平安中期・重文)は、十一面観音の左脇侍であったとも護摩堂に伝わったとも言われる。また、天理市の長岳寺にも護摩堂伝来の木造増長天像と木造多聞天像(共に平安末期・重文)がおさまる。奈良市の正暦寺にある木造菩薩立像2体(平安中期)も大御輪寺の旧仏であったと言われる。

 仏像ではないが、桜井市の安倍文殊院の庫裏は、大御輪寺の客殿を移建したものである。このように、今はなき大御輪寺ゆかりの遺物が各所に伝わる。廃仏毀釈の嵐にあって断絶する寺と共に数多くの宝物が破壊されたり行方不明になった中で、まだしも今に残って貴重な姿を目にすることができるのは幸いである。それにしてもこれほどの見事な仏像を擁した大御輪寺とはどのような寺であったのだろうか。

     奈良時代に遡る大神寺の創建


 大神神社二の鳥居を前にして左に折れる道を行くと、大神神社摂社大直禰子(おおたたねこ)神社の鳥居につきあたる。境内には入母屋造り、間口5間、奥行き5間の堂々たる社殿が立つ。しかし、神社と言うよりも、どう見ても寺の本堂にふさわしい建物である。それもその筈で、ここが大御輪寺の旧境内であり、その本堂だけが残って社殿に転用された。寛政3年(1791)に刊行された『大和名所図会』には、本堂の他に三重塔、護摩堂、鐘楼が境内の東に描かれている。今ここは広い空き地である。

 大直禰子神社の祭神は大神神社の祭主であった大神氏の始祖、大田田根子(大直禰子)である。本殿には大直禰子の木造神像(拝観はできない)が祀られているが、これは神宮寺として若宮大御輪寺と呼ばれた寺にもともと存在して、十一面観音などと共に本堂に安置されていた。十一面観音は若宮(大直禰子)の本地仏とされていたのである。神仏習合のこのような形態は江戸時代までは全国、普通に見られたが、慶応4年(1968)の神仏分離令によって、若宮大御輪寺は一夜にして大直禰子神社に姿を変えたのである。

 大御輪寺の歴史は古い。大御輪寺の寺名は鎌倉時代の叡尊による中興以降のものであり、その前は大神寺あるいは三輪寺と呼ばれた。大神寺の名称が初めて文献に登場するのは、鑑真とともに来日した唐僧思託が延暦7年(788)に撰した『延暦僧録』の中で、「沙門浄三(きよみ)が大神寺において六門陀羅尼経を講じた」という記載である。沙門浄三は天武天皇の孫でもと智努(ちぬ)王、従二位大納言までのぼりつめて政界で重きをなし、一方仏教にも帰依して鑑真の菩薩戒を受け、唐招提寺講堂の建立や薬師寺仏足石の制作で活躍したことが知られる。浄三が没したのが宝亀元年(770)であるから、それまでに大神寺が存在したことになる。

     大神氏の邸宅が寺になる


 大直禰子神社の本殿は昭和62年(1987)から解体修理された。その際に建物とともに社殿地下遺構の調査も行われたが、これにより寺の創建から変遷に関する多くの知見が得られた。

 境内は、丘陵の裾を削って均した一辺65mの平坦地である。本殿が建つ場所はその北西隅になる。地下からは6期にわたる遺構が検出された。1期は7世紀後半の南北建物で、桁行き6間(約12.6m)、梁間2間(約4.8m)、柱痕跡は径30cmを超える。古代の宮殿や役所は、南面する正殿とその前の広場をはさんで東西脇殿が建つという構成になる。豪族の館もこれに準じる。1期の建物はその規模、方位、位置などから豪族居館の西脇殿と推定できる。

 12世紀前半に成立した『今昔物語集』に三輪寺のことが出てくる。大神高市麿の美談を語る下りで、彼の家が三輪寺になったというのだ。高市麿は7世紀後半に活躍した大神氏の当主で、『日本書紀』や『続日本紀』にその記録が見える。壬申の乱では天武方につき箸陵の戦いで大いに手柄を立てた。持統天皇が伊勢へ行幸したときは、農繁期の妨げになることを説いて行幸の中止を諫言している。しかし、聞き入れられず、再度諫言して中納言の重職を辞した。のちに長門守になり、慶雲3年(706)左京大夫従四位上にて亡くなる。壬申の年の功により従三位を追贈された。

 天皇に諫言して官職をなげうつというのは、のちの時代の人にとっても衝撃的な事件であったのか、8世紀末の『日本霊異記』はこのエピソードを元に美談にしたてている。『今昔物語集』の中の話はそれとほぼ同じ内容であるが、三輪寺のことが付け加えられた。発掘調査により三輪寺の前身遺構が豪族居館であったことがほぼ確実となり、『今昔物語集』のこの記述の信憑性ががぜん高まったのである。

     双堂から内外陣の本堂へ


 1期の南北建物が取り除かれたあと、8世紀前半を示す2期の3間四方(約6.3m)の倉庫風建物が建った。建物がなかった3期を経て、8世紀後半に4期の建物が建つ。東西5間(約13.5m)、南北2間(約6m)の切妻造り、礎石建ちの東西建物が南北に2棟並んで建つ双堂である。北側の後堂は床張りであり、南側の前堂は吹き放ちの土間である。このような形式の建物で思い浮かぶのは、たとえば創建時の東大寺法華堂がある。奈良時代の法華堂は、仏像を安置した本殿と礼拝する拝殿が別棟の双堂であった。鎌倉時代になり改修され、両者は屋根をつないでひとつの建物になった。

 4期の双堂も本殿と拝殿を別棟とする寺院建築と考えられる。沙門浄三が大神寺において六門陀羅尼経を講じたのは760年代と推測できるが、建築および考古学的調査からもこの期の寺の創建が裏付けられたと言える。大神氏の『三輪高宮家系譜』では、高市麿には2人の息子がいて弟の興志が「三輪若宮神官之遠祖也」とされるが、系譜上の年代とも合致する。

 13世紀初め、前堂は解体改築され後堂と接続された。後堂と前堂の機能は、内陣2間と外陣3間の平面プランに受け継がれたのである。屋根も妻入り入母屋の大棟が切妻の後堂にT字型に接続して、これも改修以後の東大寺法華堂と似たような作りである。これを5期として、鎌倉時代後期に建物はもう一度大きな改修がある。

      叡尊による中興、大御輪寺へ


 6期の建物は5期の平面プランはそのままに、建物全体が1棟の入母屋造り本瓦葺きの屋根となる。内陣が土間となり、中央3間後寄りに版築工法の仏壇が築かれる。この改修があったのは弘安3年(1285)であり、叡尊が主導した。寺名も大御輪寺と改名して西大寺との本末関係は幕末まで続く。

応永19年(1412)に内陣は床張りになり、仏壇も土造から木造となって背面と側面の3方が板壁で囲われる。さらに、内陣東北隅、仏壇の向かって右隣に間口、奥行き各1間の1室が設けられ、前述の大直禰子像が安置された。仏壇には十一面観音像を中心に地蔵菩薩像と不動明王像が坐る。一堂に神仏を併置する形はこうして明治初年まで変わらなかった。

 神仏併置の理論的根拠とでもいうべき挿話が『三輪大明神縁起』の中にある。『三輪大明神縁起』は原著が叡尊であるとされる。大物主を父として皇子(若宮)が誕生したが、母はすぐに亡くなる。皇子は母を恋慕して泣き暮らすが、ある日、石の上に人が現れて母の形となる。皇子は大いに悦び、悲しみもやむ。皇子が十幾つかになったとき、大御輪寺の一室にこもり、再び出てくることがなかった。のちに戸を開けると、十一面観音像がお立ちになっていた。若宮が入定して観音に転生するというストーリーが、神像を安置する1室をこしらえて仏像と並べるという構成になったのだろうか。

 大直禰子神社社殿の内陣は柱位置が創建の後堂柱位置を踏襲して、奈良時代以来の歴史を刻む貴重な寺院建築であり、重文にも指定される。明治初年の破壊を免れたのは、皮肉にも神仏習合の神像が安置されていたことで神殿として認められたからである。大神神社には神宮寺として三輪流神道の拠点である平等寺や浄願寺があったが、これらの寺は一宇も残らず破却された。

     十一面観音像の由来


 さて、十一面観音像であるが、大神寺の創建以来の仏像であると思いたいところであるが、そうは単純に断定できないらしい。観音像の安置が確認できるのは、文献や旧本堂の建築的な検討から弘安3年以降となる。それ以前の本堂のスケールでは十一面観音像を納めるには無理があるというのが、専門家の意見である。それでは、大神寺の他の堂から観音像は移されたのか、あるいは他の寺から運ばれたのか。これも両説がある。

 本殿の天井裏から脱活乾漆の螺髪断片が見つかっていて、奈良時代の丈六如来像の一部と考えられる。乾漆造りの仏像は官営の工房が担った。大神寺は氏寺にしては相当の規模と内容を備えたものであったと想像できるが、これは大神氏が名門であったことと朝廷からの厚い支援あってこそ可能だろう。沙門浄三の記事は朝廷との太いパイプを裏付けているのではないだろうか。乾漆の丈六如来像に脇侍の十一面観音像、古代三輪山の麓に招来され、麗しくも輝いた美形の仏たちが思い浮かぶのである。

大直禰子神社所在地地図リンク

大直禰子神社本殿 
●参考 前園実知雄「大神寺と大直禰子神社」(『奈良・大和の古代遺跡を掘る』) 鈴木喜博「旧大御輪寺本堂と安置仏像の変遷」(『仏教芸術』232号) 奈良県教育委員会『重要文化財大神神社摂社大直禰子神社社殿修理工事報告書』
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