奈良歴史漫歩 No.073 朱雀門に次ぐ興福寺南大門 橋川紀夫


発掘調査前の南大門跡。手前の土壇が薪御能の舞台となる般若の芝。後に階段のつく門基壇。いずれも神仏分離令以降の整備による。

     南大門の復元目指して基壇を発掘調査


 興福寺南大門は今はその跡を残すのみで、5月の薪御能の舞台として知られる。また、春日若宮おん祭のお渡りでは交名(きょうみょう)の儀がここで執り行われる。南大門は中金堂とともに7度被災しているが、享保2年(1717)の焼失以後再建されなかった。

 興福寺は境内整備を進めて、すでに中金堂、中金堂回廊、中門の基壇が復元されている。創建1300年を迎える来年には、いよいよ中金堂の立柱式があり、建築工事がスタートする予定だ。これらの準備として、1998年から奈文研により境内の発掘調査が行われてきたが、今回、南大門跡が調査され、その現地説明会が開かれた。

 南大門跡は表面の芝や土が取り除かれ、赤茶けた色の土が剥き出しになっている。人体で言えば、メスを入れて表皮をかき分け内蔵を露出するようなタブーを冒しているようなものだ。現地説明会に参加することは、どこか禁断の悦びに通じるような好奇心と知識欲を満たす行為だと思う。日曜日(9月27日)だったので観光客も多く、呼び込みが功を奏したのか見学の列は絶えなかった。

 基壇を断ち割った面の版築がまず目についた。5cmから20cmの厚さの土層を積み重ねた縞模様がくっきり現れている。発掘直後なら土層の異なる色合いも鮮明に見えただろうが、すでに乾燥しているのでそこまでは分からなかった。

     創建時の礎石跡が残る


 巨大な礎石抜き取り穴がある。目測では、不規則な形ながら3mから2m四方の大きさであり、このような穴が9個あった。また、砕かれ削り取られているものの礎石の残った穴も6箇所あった。礎石は花崗岩で、穴の状態から動かされた様子はなく創建時のものだという。南大門は6回再建されたが、いずれも元の位置に寸分違わず建てられたことになる。

 享保2年の焼失の後も壇上積み基壇はそのまま残ったが、明治に入り基壇は破壊され、礎石も抜き取られ粉砕された。ふたたび土を盛って整備されたのは、今回の調査で土盛部分から硬貨が発見されたことで大正9年以降であることが判明した。

 奈文研の発掘担当者が要所要所におられた。抜き取り穴に小石が散らばっているので根石ではないかと思ったが、礎石を抜き取った後に埋めた石であるということだった。とんちんかんで意地悪な質問にも丁寧に誠実に答えてくださる研究員の方々には、いつもながら頭が下がる。現説の魅力は、やはり専門家から親しく教えを乞えることだ。

 基壇東端部は削平されていたので3カ所の礎石跡は検出できなかったが、これらのデータから南大門の平面規模が復元できる。桁行5間×梁行2間で、東西23.4m(78尺)、南北9.0m(30尺)になる。柱間寸法は、桁行の中央3間が4.8m(16尺)等間、両端の1間が4.5m(15尺)、梁行は4.5m(15尺)となる。古記録と絵図から入母屋重層5間3戸の壮大な門であったことがわかる。

 ちなみに当時の官寺筆頭の大安寺の南大門は、桁行5間×梁行2間で、東西25m(85尺)、南北10m(34尺)である。平城宮朱雀門も大安寺南大門とまったく同一規模である。興福寺南大門は東西7尺、南北4尺小さかったことになるが、この微妙な数値に政治的な配慮が窺えて興味深い。朝廷の最高権威に匹敵しながら、心持ち遠慮したというべきか。藤原不比等の深慮遠謀をここにも見るといったら穿ち過ぎか。

    2度改修のあった基壇


 南大門には木造金剛力士像が東西に2体安置されていた。これらも焼失したが、その台座を据えた基礎が見つかった。東側は削平されて一部しか残っていないが、西側は完存していて、1辺2.8mの方形の穴の中に切石を並べてあった。切石は、三笠山に産出する地獄谷溶結凝灰岩で、その上面は同じ高さに揃えてある。この上に台座を据え、巨大な力士像を支えたのだろう。

 基壇外装の地覆石とその抜き取り穴が見つかっている。地覆石は壇上積み基壇の地面との接点に置かれる石である。地獄谷溶結凝灰岩と花崗岩の2種類の石が残っていたが、これらは、創建時の地覆石を抜き取って基壇を改修した際に使用されたということだ。それぞれの石は、異なった時期の改修に使用され、溶結凝灰岩は11世紀、花崗岩は14世紀の改修と推定される。

 地覆石とその抜き取り穴から判明する基壇の規模は、東西31.0m、南北16.7mとなる。基壇の高さは傾斜面に造営されているため、北面で約0.9m、南面で約1.4mとなり、南北の高低差が大きい。

     『大和名所図会』の南大門


 礎石抜き取り穴とは別に瓦片が詰まった直径1m程の穴がふたつあった。ちょうど桁行中央1間の梁行中央にあたるふたつの抜き取り穴の北側に隣接する位置である。担当者は何の穴か良く分からないと言われたので気になっていたのであるが、帰宅して『大和名所図会』を見ると、興福寺境内の絵図に注目すべき描写があった。

 寛政2年(1790)に発行されたので、享保の火災後の境内が描かれるのであるが、南大門基壇の上にも塀が伸びて中央に小さな冠木門(かぶきもん)が設けてある。冠木門は、左右両端の門柱の上方に冠木(笠木)を渡した門で、屋根はない。観音開きの扉がつく。門がないまま放置しておけず、応急措置をしたという印象である。基壇の中央に5mほどの間隔で残る瓦片のつまったふたつの穴は、冠木門の門柱を立てた跡ではないだろうか。

     三条通りから見上げる門


 興福寺の南大門は三条大路に面するが、道路からは30mほど奥まった位置に建つ。これも謎とされるが、現地に立てば地形的な理由からであることが了解できる。南円堂の階段下から猿沢池52段まで三条大路は急坂をなすが、元の地形はこのあたり急峻な崖であった。崖を避けて比較的平坦な場所まで後退して建てたのであろう。結果的に南大門の正面に広場が生まれ、寺の境内でありながら町に開かれたスペースとなった。薪能や交名の儀など町衆も参加する祝祭の空間として、興福寺の中でも特異なスポットであっただろう。

 南大門と三条通りの高低差は地形図から見ると5mある。今は通りから境内へは階段を築くが、江戸時代の絵図には階段はなく坂であった。門の高さは約20mほどだろうか。三条通りから見上げた門はさぞかし勇壮な構えを以て聳え立っていたことだろう。南大門をくぐれば、目の前に中金堂院の回廊が左右に伸び、中門越しに東西9間40m、裳腰つきの華麗な寄せ棟の中金堂が見通せたのである。それは大和の覇者にして朝廷をも恐れる実力を誇った寺にふさわしい偉観であったに違いない。

●「奈良歴史漫歩」興福寺関連ページ
0007度再建された興福寺中金堂   003底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭
021春日御塔、春の夜の夢のごと    045春日若宮おん祭の歴史
058興福寺西金堂             059興福寺南円堂
047若草山山焼きの起源         053猿沢池の釆女と龍神伝説

画面左下の切石が金剛力士像の台座を据えた跡。ブルーのプレートを置いた場所が礎石抜き取り穴、
右手前の穴には粉砕した礎石の一部が残る。遠景のお堂は東金堂。


画面中央に大きな礎石抜き取り穴、その左に瓦片を詰めた穴が見つかった。
享保の火災後に建った冠木門の柱跡か。



三条通りから南大門へ通じる階段、神仏分離令以降の整備で設けられた。遠景に五重塔。


『奈良名所図会』から、享保の火災後の興福寺境内。赤の楕円形内が南大門跡、基壇の中央に冠木門が描かれる。
●参考 「興福寺南大門の発掘調査現地説明会資料」奈文研     興福寺ホームページ
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