奈良歴史漫歩 No.074 無垢の木の家とセイタカアワダチソウ
――幸田文の斑鳩 
橋川紀夫


再建された法輪寺三重塔。法隆寺五重塔をモデルに古代の様式に復元された。江戸時代の修復で改変されていた。

   法輪寺三重塔の再建に貢献した幸田文

 NHKラジオの「ラジオアーカイブズ」(第2放送・月曜203021:00)は、故人の作家たちの「在りし日」の声を聴かせてくれて、私の愛聴する数少ないラジオ番組のひとつである。先日、幸田文が登場するなかで興味深い話題があった。彼女が斑鳩に一年余り滞在したときの思い出話である。

 幸田文と斑鳩の縁は、彼女が法輪寺の三重塔の再建に協力したことから生まれた。昭和48年から翌年にかけては斑鳩へ住みこんで建築工事を見守っている。

 白鳳期創建の三重塔は、法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに斑鳩三塔として1200年以上の長きにわたって斑鳩の風景を形づくってきたが、昭和19年の夏、落雷のため一瞬にして灰塵に帰した。戦後になって住職の井上慶覚師は、物質不如意のなか再建のための勧進活動に尽力する。全焼で国宝解除されたため資金はすべて自前で賄わなければならず、募金は困難をきわめた。しかし、塔の柱となる台湾ヒノキを買いつけるまでにこぎつけたのであるが、昭和44年に住職は遷化される。

 再建は慶覚師のご子息、若き住職の康世師に引き継がれた。だが、資金は底をつき経費高騰のせいもあって工事は中断を余儀なくされる。かねて塔の再建に関心を寄せていた幸田文はこれを知り、物心両面からの支援に打ち込んだのである。多くのメディアで訴えて、原稿料や講演料はすべて寄付した。そのせいもあって塔再建の悲願は広く知られるところとなり、寄付も軌道に乗った。

 昭和48年10月には立柱式、翌年の11月には上棟式と順調に工事は進む。棟領は法隆寺の宮大工で薬師寺の金堂、西塔再建の棟梁もつとめた西岡常一である。昭和50年11月には盛大な落慶法要が執り行われた。

 幸田文は塔再建の大きな貢献者であるが、執念ともいえる支援活動へ突き動かしたのは何だろう。よく言われるのは、父、露伴の名作『五重塔』の影響であり、自らも認めておられるようだ。だが、一年余り居を移して建築工事を見守る情熱は、宮大工の仕事へのなみなみならぬ関心があったからだと想像する。がんらい職人気質の作家は、高度な職人の技をもってする塔再建という企てにロマン以上のエモーションをかきたてられたのだろうか。

 ラジオで放送されたのは、塔の落慶から間もなくNHK教育TVに出演して語ったものの一部である。塔ではなく、斑鳩の風景が語られる。

   幸田文の斑鳩体験


 私はこの斑鳩の地に一年余り住んだわけであります。いろいろ面白いことがございましたが、その中でも魅かれたものはやはり塀なんですね。東京では見ることができない厚い塀がいくらもめぐらしてあります。もちろんお寺さんは立派な塀なんですけど、人の住まいに使われている塀も厚くて堅固な造りがしてあります。

 ここにあの斑鳩の特徴となっている柿の木というものが見逃せないんですけど、ほうぼうに植えてあるんですけど、塀の内側にも植えてあります。春に芽が出たとき黄色い青さなんです。それが春風にユラユラしていましてね、塀の築いた厚いところにとてもキレイなんです。合うんです。夏はその塀の下を通りますと、実りきらなかった青い小さな実がポトポト落ちています。夏の暑い日差しがそれを照らしているんですけど、思わずこの厚い塀の向こう側はさぞヒンヤリしているんだろうなといい気持に想像できますの。秋はむろん真っ赤に熟れた柿がこの塀を飾って、赤い陽を映しているんですね。冬はむろん小雪でございますよ。柿の木は実も葉もなくなって枝だけ骨のように静まっています。その下の塀は、じっと私が見ると背が低くなって耐えてるなという風に見えるんです。

 そういう厚い塀のなかにベニヤ板の合わせものではなくて無垢の木を使って堅固に建てた家のなかに代々住んで暮らしている方に、私はなにか東京でざわざわ暮らしている日常というものを問いつめられる気がして、コンプレックスのようなものを感じますのよ。

 菜の花は斑鳩のメルヘンのように言われているし、2、3年前まではどの案内書を見ても書いてあったのですけど、もうこの花はございません。菜の花は春、黄色く咲きます。秋、この花に匹敵するようにカッと真っ黄に咲くのが、セイタカアワダチソウなんです。これは大変に繁殖力が強くて、勢いがあって、けたたましく憎々しいところもございます。何かこれがよその国から飛んできたというか、渡ってきたという草だと聞きますと。厚い土塀の家の隅々のどんな小さなスペースにも根を下ろしています。どこへ行っても見えます。何か憂わしいというか心配というか心の晴れないものが、この真っ黄色の花の上に漂っているように私には見えます。

 斑鳩に一年余り住みましてね、土地の方とも馴染みができました。その方にある時お話をうかがったら、葬式道があるって、どういう道なのかと言いますと、お葬式の葬列の通る道だって言うんですね。その道はずっとうねうねと迂回して法隆寺の前を通らずよけて、法隆寺をご遠慮申して回り道をしてそういう道なんです。道の入り口にお地蔵さまをいつか誰かが立て、そのわきに椿を一本植えて、椿が赤い花を年々つけるんです。その話を聞いた時、ちょうど椿が咲いていましたけれど、はるかに斑鳩の田園風景を見、古いお寺や塔がある遠景を見て、そこに住む人がこういう風にして住んできたんだなあって思ったら感無量で心のなかにいろいろな思いが去来して、何かこう胸の迫るものを感じました。

   伝統的な風土の崩壊


 ほぼ40年前の斑鳩の風景である。そのころはすでにモータリゼーションが進んでいて主要な道は舗装され、奈良盆地の風景は激しく変容するただなかにあったと、当時二十歳であった私ははっきり証言できる。しかし、路地に一歩入ると昔ながらの集落は外観をとどめて、田畑も多く残っていた。

 あれから40年、斑鳩の風景はさらに一変するほどの変化をこうむっているが、白壁と柿の木のとりあわせは減ってはいても今も見いだせるに違いない。しかし、幸田文が述べたような感慨はさすがに遠い世界のことのように思える。いや、40年前だって「厚い堅固な塀」や「無垢の木の家」や「葬式道」はすでに失われつつあったのだ。だからこそ意識され、尊いものとして語られることになった。

 1970年代の風景としてリアリティを感じるのは、セイタカアワダチソウを述べたくだりである。60年代後半から急激に増殖して、アワダチソウは荒地、空き地、休耕田を埋めつくし、日本の秋の風景を塗りかえる勢いがあった。進駐軍の物資にまじってもたらされ、開発や放置されて在来の植物が空白状態になった土地を強力な繁殖力をもって占領したのである。その黄色は毒々しいまでの存在感があった。

 しかし、この植物は根から自家中毒の物質が出るということで、80年代の後半から波が退くように消えて今では片隅にときどき見かけるぐらいになった。21世紀も10年代半ばとなり、セイタカアワダチソウさえ懐かしく思い出すところまで来てしまったが、まさに、60年代の高度成長期から80年代のバブル期までの時代を彩る花である。幸田文がこの花に不吉な気配を感じたのは、何百年と存続した伝統的な風土の崩壊をこの植生の変化に見ていたのだろう。




法輪寺門前風景。道は整備されて便利になったが、斑鳩の里の情緒は失われた。写真右の古風な屋根の民家も崩壊寸前だ。
●参考 「法輪寺の塔 」幸田文(『奈良の冬』角川書店1979
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